有名なキリシタン大名
戦国時代はキリスト教が伝来した時代です。
キリスト教を信仰する戦国大名が現れ、キリシタン大名と呼ばれています。
戦国時代に広まったのはキリスト教のなかでもカトリックです。
カトリックは洗礼(信者になる儀式)の時、洗礼名を授けられることがあります。
今回はキリシタン大名を紹介します。
大村純忠(おおむらすみただ)
肥前国(現在の長崎県)の武将。
日本で最初のキリシタン大名と言われています。
洗礼名はドン・パルトロメオ。
長崎の開港に尽力し、キリスト教の布教と長崎の発展に貢献しました。
大友宗麟(おおともそうりん)
豊後国(現在の大分県)の大名。
最初は南蛮貿易で領地を発展させるため、キリスト教の布教を認めていました。
宗麟がキリシタンになったのはキリスト教の布教を認めてから27年後。
宣教師のルイス・フロイスとの出会いの影響と言われています。
洗礼名はドン・フランシスコ。
宗麟はキリスト教国家の建国を夢見るようになります。
しかしこの行動が家臣団からの不信感を増大させ、大友家は勢力を縮小させます。
高山右近(たかやまうこん)
畿内(関西)を中心に活躍した武将。
主君がたびたび変わりますが、最終的には豊臣秀吉の家臣となります。
父親がキリシタンだった影響で、12歳で洗礼を受けます。
洗礼名はドン・ジュスト(もしくはドン・ユスト)。
豊臣秀吉がキリスト教を禁じた「伴天連追放令」(ばてれんついほうれい)を出し、右近に棄教(信仰をやめること)を迫ります。
右近はこれを拒否し、領地や財産をすべて放棄します。
その後は前田利家の元で暮らしていましたが、江戸幕府が「キリシタン追放令」を出したことで国外に追放。
フィリピン・マニラ送られますが、到着後わずか40日で熱病でこの世を去ります。
小西行長(こにしゆきなが)
和泉国・堺(現在の大阪府堺市)の商人から武士になった人物。
豊臣秀吉に気に入られ、その家臣になります。
イエスズ会と懇意だった父の影響で、商人の頃からキリシタンでした。
洗礼名はアウグスティヌス。
豊臣秀吉が出した、キリスト教を禁ずる「伴天連追放令」の影響でキリスト教を棄教します。
しかしイエスズ会との関係は保ち続け、秀吉の死後にキリスト教の布教活動を支援します。
その後、関ケ原の戦いで敗北し処刑されています。
蒲生氏郷(がもううじさと)
近江国(現在の滋賀県)の出身で、織田信長や豊臣秀吉に仕えました。
高山右近に誘われてキリシタンになり、家臣や友人にキリスト教を進めるほど熱心に信仰します。
洗礼名はレオン(もしくはレオ)。
豊臣秀吉が出した、キリスト教を禁ずる「伴天連追放令」の影響で布教活動を控えます。
ただ信仰心を失くしたわけではなく、キリスト教の布教許可を秀吉に願い出ています。
この時高山右近と共に願い出ており、二人は親友と言っていい仲でした。
しかし病に倒れ、マリア像を持った右近の看取られながら40歳で亡くなりました。
黒田官兵衛(くろだかんべえ)
豊臣秀吉の軍師で播磨国(現在の兵庫県)に生まれの武将。
秀吉が天下統一後は豊前国(現在の大分県)を領地とします。
高山右近と蒲生氏郷の影響でキリシタンになりました。
洗礼名はドン・シメオン。
高山右近と蒲生氏郷と同じく、秀吉が出した、キリスト教を禁ずる「伴天連追放令」の影響で棄教を迫られます。
官兵衛は表面上では棄教を誓い、秘密裏に信仰を続ける道を選択します。
官兵衛は自信が死ぬとき、ロザリオと祈りの言葉が書かれた紙を胸に抱き亡くなったと言われています。
まとめ
長崎では大村純忠の影響でキリスト教が広まる。
大分の大友家では家臣団の不信感を生んだ結果、勢力縮小。
豊臣家家臣ではキリスト教を禁じられたため、多くが表面上では棄教を誓い、秘密裏に信仰を続けた
豊臣家家臣で唯一、高山右近のみが棄教せず信仰を続けた。
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