見出し画像

【連載小説】秘するが花 8

藤若 3

 その父は、もう、いない。
 
 おれは、どうすればよいのか。
 
 藤若には、
 父が得意とした能を
 舞うことができなかった。
 藤若と父では、体格が違ったからだ。
 父は、人並外れて大柄な身体で
 優美に女を演じた。
 
 特に父の小野小町は絶品だった。
 アメノウズメを始祖とする、
 猿女君の一族の小野氏。
 その小野氏の祭祀を司る
 采女であった小町。

「ちはやぶる 
 かみもみまさば 
 たちさばき 
 天のとがはの 
 樋口あけたまへ」

 と歌って雨乞いを成した巫女。
 父は大きな体で日本一の美女、
 小野小町を優雅に舞った。
 
 ああ。
 もしかしたら、
 観客は父に憑いた小野小町
 を拝んでいたのだろうか。
 
 しかし、藤若は小柄。
 小柄な藤若が父の能を演じても、
 出来の悪い物真似でしかない。
 加えて、
 我が座で小野小町を出したら、
 いやでも、観客に父と比べられる。
 父を思い出した観客は、
 改めて父の死を知る。
 そして、看板役者がいないこと、
 この一座には未来がないこと
 を思い出す。
 観客は、
 夢幻に酔うことができなくなる。
 よって、
 立会い能で父の能を舞うことは、
 我が座にとっては不利益だった。
 ならば、どうすれば良いか。
「新しい能を創ることこそ、
 立会い能の勝利の要」
 そんなことは、百も承知。
 しかし、
 面白い能など、簡単には作れない。
 どうすれば面白い能ができるのか。
 面白いとは、
 天岩戸が開いた時に、
 白く輝いた神々の顔
 を表した言葉。
 
  天岩戸を引き立てて 
  神は跡なく入りたまへば 
  常闇の世とはやなりぬ
  八百万の神たち
  岩戸の前にてこれを嘆き
  神楽を奏して舞ひたまへば
  天照大神その時に
  岩戸を少し開きたまへば 
  また常闇に雲晴れて
  日月光り輝けば
  人の面白々と見ゆる 
  面白やと神のみ声の
  妙なるはじめの物語
 
 藤若は、時に、
 観客が父を拝むのを見た。
 舞台上の父に手を合わせる観客。
 まるで、神仏に祈るように。
 まるで、父が神仏ででもあるように。
「我らの舞いは、カミサマのため」
 神仏がこの世に顕現した
 仮の姿が影向の松。
 その影向の松は、
 舞台の背後の鏡板に写っている。
 父は、
 正面の見えない松に向かって舞った。
 神々の顔が白く見えるように、舞った。
 
 面白いこと。
 それは、
 観客にとって、「意外なこと」。
 舞台で見る者にとって
 「意外なこと」が起きた時、
 見る者の心が動く。
 これこそが、能の理(ことわり)。
 とはいえ、
 この理を見る者が知ってしまえば、
 その効果は激減してしまう。
 予想もしていなかった時に、
 「意外なこと」
 を見せられると観客は感動する。
 ならば「意外なこと」とは、
 どんなことだろうか。
 
 藤若の脳裏に、
 はざまの世の夢がよぎる。

 白い雪が舞う中を飛ぶ、
 白い紋白蝶。
 白と白ゆえに、目を凝らして見た。

 一面の銀世界ならば、
 映えて目立つはずの黒い蝶。
 けれども、そこは真っ暗な闇夜。
 目を凝らしても、
 もはや、視認できなかった。
 しかし、だからこそ、
 紅梅の香りに気がついた。
 見えないからこその、存在感。
 
 そして、なにより、
 あの男の舞い。
 父をさえ憧れさせた、あの舞。

 藤若は、また、夢がみたかった。

いいなと思ったら応援しよう!