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別離


今日しかない。
今日しかないという確信があった。
今日しかない。
今だ。
今なら死ぬ勇気がある。

空々しい冷ややかさを孕んだ春宵の香り。死を司る彼女は、幼い頃からいつも私の側にいた。あどけなく、どこか悪魔的な微笑。挑戦的で、何もかも見透かすような強い瞳。長く渦を巻くあの美しい髪。それは無邪気な空色に透き通るようにも、漆黒に艶めかしく微笑むようにも見えた。あの妖艶さで、一体どれほどの魂を絡め取り、その蠱惑的な体の内に流し込んできたのだろうか。
死。それはいつだって私を魅了し、私はいつだってそれを渇望していた。
遂にその手を取る時が来たのだ。

棚の奥に押し込んだロープを引き摺り出す。インターネットで「解けないロープの結び方」を検索する。何度もシミュレーションしてきた通り、1Kの小さなアパートの中で一番強度のありそうなクローゼットの柱にテキパキとロープを掛け、解けないようにしかと結び目を作った。

さて、いつ死んでも構わないよう常に荷物は最小限にしてあるし、遺書を書くのはなんだか気が進まない。駆け付けられては困るので、恋人にお別れの電話はしないと決めている。これで何の心残りも…
そこまで考えて、ふと手を止めた。
かねてより私は、死ぬ前に一つ、自分で満足のいくような一世一代の絵を描きたいと切望していたことを思い出した。
それが、何だか今なら描けそうな気がした。
死ぬ前に、私の全てを詰め込んだ作品を。そんな絵が、何だか今なら描けそうな気がした。
遺書ではなく、絵を遺す。素敵じゃないか。
そんな考えの虜になった。

逃すことのできないチャンスだった。だってこれで本当に最後だ。
濃紫の油絵具をキャンパスに広げ、粉々に砕いたガラスを素手で握ってキャンパスに擦り付けた。どうして紫色を選んだのだろう。
手に血が滲む。構いやしない。どうせ死ぬんだ。噴き出した血をキャンパスに刷り込む。私の遺書。私の一部。私自身。異状な興奮で目の前がパチパチと輝く。眩しさに足がくらむ。涙が止めどなく溢れる。何のために流されているのかわからない涙。
呼吸が浅くなる。この後すぐに、この世界から消えて無くなる呼吸。
ガラス片では満足できず、キッチンから台所鋏を持ち出した。クローゼットの柱にくくり付けたロープの一部をザクザクと切り取る。
刻み付けたかった。私に死をもたらすこのロープも、そこに生える無遠慮なささくれも、全部、全部。
ガラスで描いた模様をロープでぐしゃぐしゃに壊してしまう。キャンパスの中央、絵の具がはげて、ぽっかりと小さな空白ができる。心を映し出したみたいに、ぽっかりと、節目がちに開く小さな穴。

「ごめんなさい。ごめんなさい。」
声がこぼれる。誰に対して?何に対して?
濃紫色に染まったロープをかなぐり捨て、もう一度ガラスを手に取る。もう一度、もう一度。ぐりぐりと、キャンパスが撓む程の力を込めて、線を引く。いくつも。いくつも。手の導かれる方向へ。何度も。何度も。

これで完成だ。と思う瞬間が訪れた。
目の前に、渦を巻いて広がる濃紫色の暗黒がある。死への渇望が、丸ごと吸い取られてしまったかのような暗闇だった。
それはあまりにも私自身で、それはあまりにも私の全てだった。


瞬間、電話が鳴った。
静寂と混沌の飽和した夜闇が切り裂かれた。
友人からの電話。着信音が続く。私はしばらくそれを眺めた後、機械的に応答ボタンを押した。私は放心状態だった。なぜ電話に出たのだろう。
何気ない、何という用事もない、平和な声が聞こえる。
「元気ー?」
元気かと問うその声がすこぶる腑抜けたものに聞こえた。元気かと問われれば、元気ではないし、でもいつにも増して元気であるような、そんな感覚もある。回らない頭をぐるぐる動かし、私は努めて明るく、いつものように、「元気だよ。」と答えた。
彼女は仕事云々、上司云々、またご飯に行こう云々といつも通り話し始めた。長くなりそうなので、私はベットに腰掛けた。体力の限界だった。死を司るあの女も、並んで座る。私を見つめて待っている。心無しかその目に、小さな焦りが見えた。
電話はいつも以上に長かった。既に体力の限りを尽くしてしまっていた私は、そのまま深い眠りに身を沈めた。


翌朝目を覚ますと、あの妖艶な女はパタリと姿を消していた。彼女が姿を消すなんてそんなこと、私の人生で、唯の一度だって起きたことがなかった。不安と焦燥に駆られて部屋を見渡した刹那、あの濃紫の深い渦の中に、哀しげな眼をしたあの女の姿を見た。彼女のあの瞳!だが私と彼女は、キャンパスの膜を通して完全に分断されていた。どうしてしまったことか!私は叫んだ。彼女を救い出そうとしたその手が虚しく宙を舞った。私は激しい混乱に陥った。
嗚呼、私の母!私の親友!私そのもの…彼女がいなくて、どうしてこれから生きていけよう。たった1人で!こんな小さなキャンパスの中に閉じ込められた彼女は、メデューサに見つめられた者のように、悲しげな瞳のまま、美しく、艶やかなあの姿で固まっていた。虚空を見つめるその瞳は虚に漂い、目を合わせることすら叶わない。それは私と彼女との、決定的な別離を意味していた。

死との別離と聞けば、人はそれを喜んでくれるに違いない。私のために、それを祝ってくれるに違いない。
けれどそれは私にとって、自己の決定的な喪失であり、未来永劫の空白を意味した。
あの日から、かつてのように鮮烈に死を求めることができなくなってしまった私は、体に大きな空白を抱え、いつかその空白を支えきれなくなった体が破綻してはくれまいかと、そうすれば彼女が再び迎えに来てくれるのではないかと、いつだって彼女のあの眼差しを探し求めながら息をしている。

濃紫の暗黒が、今も箪笥の奥底で、大きく口を開けて私を見つめている。


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