漫画『HELLSING』(ヘルシング)過剰と闘争の美学又は厨二病の末路
「過剰」こそが「価値」の源泉である。
こんばんは。システムの檻の中で生きてますか。灰色の日常にうんざりしてますか。
今日はそんなあなたに「過剰と闘争」かくあるべし、という翼を与える「過剰」な漫画をご紹介します。
『HELLSING』(ヘルシング)平野耕太 1998-2009年 少年画報社 全10巻
https://www.amazon.co.jp/HELLSING-5
です。本noteはネタバレ有ですが、例え結末を知ってしまっても、この漫画を楽しむことに何の問題もありません。自信を持ってオススメします。
まずはストーリー。時は20世紀末、舞台はイギリス。主人公は英国国教会の化物退治機関「大英帝国王立国教騎士団(ヘルシング機関)」に所属する「最強の吸血鬼」アーカード。
彼は吸血鬼でありながら、ヘルシングの指揮官インテグラに使役され、「ミディアン(化物)」を容赦なく狩り続ける存在です。
そんなイギリスで異常大量発生する吸血鬼事案。その裏にはナチス残党「ミレニアム」を率いる「少佐」が組織する「吸血鬼大隊」によるロンドン全域の破壊殺戮焦土作戦が進行していたのでした。
このヘルシングとミレニアムとの間に、バチカン・カトリック教会の化物異端殲滅機関「イスカリオテ」も加わり、三つ巴の血みどろスプラッターバトルが繰り広げられます。大英帝国の運命やいかに。
そんな本作、その魅力は脳をつん裂く
・過剰なキャラクター
・過剰な語り口
・過剰な戦闘描写
にあります。
本作の重要なテーマは「闘争」です。互いの正義、神、実存をかけたものなので、妥協や交渉は成り立ちません。人間、化物を問わないルールなき絶滅戦です。身体を裂き砕き、貫く。肉片と血飛沫が舞う残酷描写が盛りだくさんです。
しかしそんな目を覆うような残虐描写が、いつのまにやら心地よく感じられてきます。容赦なく振るわれる暴力。相手を破壊する欲望。不倶戴天の怨敵を殺す。一切合切破壊する。他者に対する、世界に対する破壊衝動と、その実現がもたらす暗い歓びが、自分にも確かに存在することに気づかされます。
以下、あまりに過剰な3人の主人公+1キャラについて、紹介させていただきます。
過剰なキャラクター達
1 主人公 アーカード
まずは主人公アーカード。彼は「最強の吸血鬼」であり、その正体は「串刺し公ブラド・ツェペシュ」にして「ドラキュラ」。人間であったころ、誰よりも敬虔なクリスチャンであった彼は、「神の国をこの世に顕現させるため」の「祈りとしての闘争殺戮」の限りを尽くし、結果として自らの国も敵も民も、自分さえも死に至らしめたという残念な過去を持ちます。
その戦闘力は本作最強。数多の反則的特殊能力を持ち、最後まで圧倒的に最強を貫きます。
性格は冷酷残虐。闘争に喜びを感じ、闘争の契約を唯一の理と定め、立ちはだかる敵は人間だろうが化物だろうが関係なく惨殺します。
実のところ、過去のアレコレが嫌になって死にたがっているんですが、その割には「化物(自分)を倒すのは人間でなければならない」という謎のコダワリがあったり、それなのに敵とみなせば全く手加減なく殺しにかかったり、全くイカれたヤンデレ野郎です。
2 アレクサンドル・アンデルセン
そして第二の主人公、アレクサンド・アンデルセン。彼は普段は孤児院の神父ですが、その実態はバチカンの戦闘機関「イスカリオテ」の最強戦力。一応「人間」ですが、ただちょっと、生物工学と回復法術の粋を凝らして強化されており、銃で頭を吹っ飛ばされたくらいでは死にません。
そんな彼は完全なる狂信者です。彼らの敵は「化物」と「異端」、つまり吸血鬼だけでなくプロテスタントのイギリス人全てが心底憎むべき「絶滅の対象」なのです。
ということで、彼の異常な攻撃衝動は化物よりむしろプロテスタントであるヘルシングに向けられており、心底楽しそうにアーカード達に攻め寄る姿は完全にサイコホラー映画の殺人鬼。ガチで夢に出るレベルの怖さです。
3 少佐
最後の主人公はミレニアムの指揮官「少佐」。武装親衛隊の生き残りである彼は、第二次大戦時に「吸血鬼部隊」の編成を目論み、当時のヘルシング機関によって壊滅させられます。
しぶとく生き残った彼は、50年かけて吸血鬼部隊を再編。ただ、その目的は第三帝国の再興ではありません。なんと「ただ一夜、戦争の歓喜を味わって全てを道連れに死ぬ」ためだけに吸血鬼大隊を指揮し、イギリスを侵略します。
自らの狂気を自覚した上でのアイロニカルな言動は、本作中最も振り切れており、まさしく「戦争狂」の名にふさわしい狂いっぷりです。
4 最高の俗物 マクスウェル
また次点として、イスカリオテ機関長、エンリコ・マクスウェルもキラリと光る特濃キャラです。
彼は、権力者の庶子であることから孤児院に捨てられ、孤独な少年時代を送ります。
その埋め合わせとして、強烈な上昇志向、権力志向に支配されています。
その志向が剥き出しになるのが大司教として第九次十字軍の総指揮権を握った時。これまでの「純粋な狂信者」の仮面が剥がれ、「思うままに権力と暴力を振るう」俗物根性丸出しのクズ人間としての狂態をタップリと見せつけてくれる煮えたぎる熱湯のような男なのです。
他にもイカし(レ)たキャラはいるんですが、本作の魅力たる「過剰さ」を体現するキャラクターはこの四人に尽きるでしょう。
特濃の「過剰」を顕現させる異様な画力とレトリック
そんな過剰な彼らの立ち振舞いや言動が、通り一遍マトモなものであるわけがありません。はっきり言えば狂気の沙汰、向こう側に行ってしまった者たちの姿と言葉が、強烈な印象を持って立ち現れます。
いくつかの場面を御紹介しましょう。
まずはアーカード。彼はどちらかというと「昔狂っていた人」で、今はヘルシングの使い魔として平穏に暮らしてます。主人からの命令なしに自ら闘いを仕掛けはしません。
しかし一旦闘いが始まれば、もう嬉しくて嬉しくて堪りません。相手が事情を知らない一市民でも容赦なく皆殺し、骨のある相手ならばその能力を存分に発揮させた後に殺します。
更に彼は吸血鬼。血を吸うことが何よりの楽しみです。
その最も凄まじい吸血描写は単行本6巻、リップヴァーン・ヴィンクル中尉に対するものです。
海上の空母という逃げ場の無い戦場で、アーカードをロンドンから遠ざけるための時間稼ぎの囮として、覚悟のうえで任務についた彼女。しかし彼の圧倒的な気配を感じた瞬間、自分の悲惨な末路を肌で悟り、恐慌状態に陥ります。
しかし健気にも立ち直り、必死の抵抗を試みるも、叶うはずもなく、生贄としての悲惨な最期を迎えるのです。吸血行為には性的な暗喩が含まれるといいますが、ここも単なる残酷に留まらず、陵辱的に描写されており、本作中一番酷い場面です。そして吸血後、狂ったように笑うアーカード。「うーん、ナイス狂気。」としか言いようがありません。化物の狂気です。
これに対するアンデルセン神父の狂気は、「狂信者の狂気」です。彼の狂信は全て神に向けられたもの。そして神の教えに背く存在は、完全に打ち滅ぼすべき「邪悪」です。「絶滅機関」イスカリオテは、邪悪に対する情け容赦のない純粋な「悪魔」として振る舞うのです。
ということで、初登場時、彼の描写は完全に「悪魔」です。吸血鬼であるセラスが、むしろ追い立てられるか弱い犠牲者として描写されます。
そして本作、私が最も「過剰な描写」であると認めるのが、彼らイスカリオテが自らの信条を全員で唱和しながら吸血鬼部隊と戦闘を開始する場面です。そもそも「イスカリオテ(第13)」とは、イエスキリストを裏切り密告した「第13の使徒ユダ」が由来です。裏切者の名を敢えて背負う彼らは、本来博愛主義であるはずのカトリック内で、カトリックを守るために暴力の限りを尽くすという「存在自体が許されざる者たち」です。
その矛盾を、その罪を充分に自覚した上で、それでも神のために、仲間のために、我が身を地獄に叩き込む戦闘を無上の喜びとする彼らイスカリオテ。その突き抜けた自己犠牲的狂気に痺れてしまいます。
更にこの場面、本来ならばアンデルセンの仇敵であるはずのヘルシング卿を、絶体絶命の危機から助ける際の描写です。これはイスカリオテの本来の使命とは矛盾した行動です。他の神父から、「命令違反では?」と問われるも、彼は強引にこの唱和を始めながら戦闘を開始します。
絶対の窮地にありながらも、諦めることのなかったヘルシング卿。それを見た彼は、「カトリック」「プロテスタント」という「カテゴリー」を超えて、ヘルシング卿を「共に闘うべき仲間」と認めるに至ったのです。
狂気に染まった者達、しかしその狂気とは見方を変えれば「倫理」です。絶対に曲げられないものを貫く者。例え怨敵であれ、それを認めた以上は例え裏切者と呼ばれようとも共に闘うことを辞さない。「意気に感じる過剰さ」が、ただただ心地よいのです。
余談ですが、単行本二巻に掲載されているヘルシングの前身的な読切作品「クロスファイア」においても、やはりイスカリオテ機関が登場します。ここでマクスウェル機関長が述べるセリフ「教義のためなら教祖をも殺す、それこそが、その狂信こそが「ユダ」の名を持つ我々「第13課(イスカリオテ)」の原理」というセリフ、これまた最高です。
そして少佐です。彼は他の二人の主人公と違い、背も低く肥満体型、どう見ても「冴えないオタク」です。
そんな彼は、ミレニアム対策のために集まったヘルシングとイスカリオテに対し、クラウゼヴィッツの「戦争論」を引用した上で「手段のためなら目的を選ばないどうしようもない連中が、この世には存在するのだ」という宣戦布告を行います。
その後、イギリス侵攻作戦開始前に、仲間に対し堂々たる戦争賛美の演説を行います。この演説は、連載当時も大きな反響を呼び、瞬く間にネットミームとして各方面に伝染しました。そう、「諸君、私は戦争が好きだ」です。
連載当時学生だった私は、ナチス残党キャラが真正面から「戦争は素晴らしい」と賛美する(そしてその後、文字通りの侵略戦争を展開する)という過剰さに、クラクラとした目眩と、不気味な高揚感を確かに感じたのでした。
さあて最後にエンリコ・マクスウェル機関長です。もう彼は只々最高です。
彼は純然たる神の使徒であった筈が、自らが強大な権力を手にした瞬間、これまで抑えていた箍がはずれ、狂気の俗物と堕すのです。
その生き生きとしたセリフと表情(そして悲惨な結末)は、極限状態における人間の一類型を鮮やかに描いています。一体誰が彼の生き様を、そして死に様を嗤うことができるでしょうか?
「厨二病の末路」について
そんな本作、血湧き肉躍る怪奇バトルアクション、その裏側で伝えたいメッセージは、一体何だったのか?少し考えてみたいと思います。
まずは3人の主人公、彼らに共通するのは「超越への希求と挫折」です。
アーカードはワラキア公であったころ、「神の国」をこの世に召喚するために、闘争の限りを尽くしました。しかしオスマン帝国に敗北し挫折。国は滅び、彼は神の恩寵とは真逆の吸血鬼になってしまいます。
アンデルセンはカトリックです。カトリックとしての神の国の実現、ヴァチカンによるこの世の支配を目指して暴力の限りを尽くし、敵を殲滅してきましたが、結局神の国は実現せず、十字軍は壊滅、彼もアーカードに敗北します。
少佐はナチス将校でした。彼のバックストーリーはほとんど語られません。大戦時はナチスによる第三帝国の実現を夢見たものと思われます。しかし敗戦によりその夢も潰えます。
三人ともおそらく元々正義感が強く、理想主義的でした。だから「世のため人のために、良かれと思って」崇高なる理想の国を本気でこの世に実現させようとしました。
その結果が、それぞれの悲劇です。
つまり「神の国とか理想国家とか、人の限界を超えたこの世にあり得ないものをガチで求めると、本来守るべき目的であった仲間も理想も巻き込んで大惨事になる」という摂理です。
そしてもう一つ、重要な問題提起は、彼らが求めた「超越」は、実は自分の「実存」を保つための隠れ蓑だったのではないかという問題提起です。つまり「世のため人のため」に、「神の国」や「第三帝国」を、犠牲を払って追求していたように見えて、本当は「ここではないどこかに存在する輝かしい理想を追求しているように振舞わなければ、このデタラメな世界と社会の中で、生きていくための動機づけを、自らの正気を保てなかった」だけなのではないかと。
アーカードは、このことをはっきりと告白しています。「何の事はない 結局の所突きつめていけばこんな物はガキの喧嘩なんだよ」「闘争の本質だ それを打ち倒さなければ己になれない そのために何もかもを引っくり返して叩き売りだ そうだ500年前の俺も!今のお前も!アンデルセンも!あの少佐も!」
だからこそ、アーカードはヘルシングの狗として暮らし、他の化物を倒しながら自分を死に追いやる人間を求めます。
少佐は残る人生を賭けて、「人間として」アーカードという化物を殺すことを求めました。
アンデルセンは良心の呵責に耐えかね、人であることを捨てて化物に成り果て、自らを犠牲にアーカードという化物を殺すことを求めます。
そこにはもはや「有効性、実現可能性」は問題になっていません。それぞれが自らの剥き出しの「実存」を賭けて自らを燃やし続けているだけなのです。
それを象徴するのがアーカードを虚数空間に封じ込めた後に少佐が口にした勝利宣言です。
「これが勝利か…勝ちとはいいものだ」等と口にしますが、セリフとは裏腹に全く虚ろな笑顔です。
結局、願いを遂げたところで、何一つ変わらない。「ここではないどこか」に行くことはできない。それすらも理解しきった上での空しい行動なのです。
「人間」とは
さて、アーカードを見事倒した少佐は、最後まで自らの自由意思でもって目的を達成した自分こそが「人間」であり、アーカードという「化物」を人間として倒したのだと宣言します。
それに対してヘルシング卿は少佐を「化物」と呼び、「アイツ(アーカード)は(人として)帰ってくる」と宣言します。
本作における人間と化物の「区別」は、ここまでは自明でした。文字通りの人間対化物(吸血鬼、人狼等人外の存在)という意味だったからです。
しかし最後にヘルシング卿はこの区別を読み替えます。自らの破滅的な目的のために全てを犠牲にした少佐を「化物」と認識し、少佐と同様の過去を持ち、それを悔いて人に使役され、人の手で滅ぼされることを望んだアーカードを「人間」とみなすのです。
つまり人間とは単なる生物学的な「種」ではなく、「人としての責務(duty)を負うもの」のことだと言い放ったのです。それを持つものであれば、化物だろうがなんだろうが人間なのだと。
そんなこんなでとにかく面白い、怒涛の漫画ヘルシングでございます。本当は他にも見所だらけ、いい味出してるキャラも盛りだくさんなのです。
若干の戦闘グロ描写に抵抗がなければ、是非ともお勧めいたします。
絵的にも素晴らしい名場面ばかり、いちいちカッコイイんです。特にロンドン襲撃時の地獄絵図は本当に魂削って描いてる感があります。
マトモな人間として生きることの難しい現代社会、彼らのアツい戦いの様、滅びの様を見て、自らの人生を見つめ直すのも一興かと思います。是非読んでみてください。
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