24.喜びの計算式
長蛇の列ができるお店のラーメンも美味しいけれど、お腹ぺこぺこで食べるカップラーメンも美味しい。
高級なお酒も美味しいけれど、日中必死に働いた後のお風呂上りの発泡酒も、負けないくらい美味い。
人が感じる喜びの大きさは、必ずしも、与えの質とイコールではない。受ける心の状態や求める心の基準によっても大きく変化するのだろう。
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教祖の年祭活動が始まり、 「ひながたを辿る」ことに重点を当てて歩む旬。なんとか時間を見つけて筆を執り、ひながたに思いを馳せる時間を大切にしていきたいと思いますので、変わらぬお付き合いのほど、よろしくお願い致します。
以前まで、貧に落ちきられたひながたの思召について思案してきました。今回はその続き、心の裸「欲を忘れる」について思案していきたいと思います。
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貧に落ちきるひながたを思案する時、まず参考にすべきが、やはり『稿本天理教教祖伝』でしょう。 「第三章みちすがら」において、端的にお示し下さっています。
物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける、
貧乏すること自体が目的ではない。心の執着を去ることが目的。欲を忘れることで自ずと心が陽気になってくる、と教えられています。
でも、 「執着を去れば心に明るさが生れる」とは、具体的にどういうことなのか。
このことについて、もう少し掘り下げて考えてみましょう。
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そもそも人間の人生において、喜べない時はどんな時でしょうか。陽気ぐらしが出来ない原因とは、一体何でしょうか。
戦争などの争い、病気や事故、人間関係のもつれ、お金や将来へ対する不安……等、
喜べない理由なんて、挙げれば切りがないように思います。
確かに、起こってくる事象に焦点を当てれば、問題は非常に複雑怪奇で、そう簡単に回答できるものではありません。
しかし一方、人間の心に焦点を当ててみれば、実は至ってシンプルなのではないか、とも思うのです。
人間が喜べない理由、陽気ぐらしが出来ない根本原因。
それは、
「人間の心に欲(求める心)があるから」
ではないでしょうか。
「喜び」とは、言うまでもなく人間の心に起こる感情です。与えられた物や環境、状態そのものに喜びが含んでいる訳ではありません。
起こってくる事象がどうあれ、それを受ける私たちの心が、理想に対して到達していない時、不足や不満、失望や怒りが生まれ「喜べない」結果となります。
逆に申しますと、冒頭のラーメンやお酒のように、求める基準が下がっている時には、小さなことも大きく喜べたりします。
そこで、人間の喜びという感情を、次のような計算式で表してみました(『ひながたに想う』参照)。
非常に卑近な例を失礼いたします。
例えば、急に100万円の借金を背負うことになってしまった自営業主Aさん。なんらかで50万円が与わったとします。 「よし!あと半分。残り足らない50万円をどうしよう」と、Aさんの喜びは半分です。
一方、友達に昼食お好み焼きを誘われた中学生Bくん。千円くらいで食べられるのにお小遣いが残っていません。そこへ偶然、知人に出会い一万円の小遣いを貰ったならば、 「よっしゃ最高や、一万円も! 友達のも奢ってあげようかな」と、千円求めていたBくんの喜びは10倍です。
Aさんに対しBくんは、与えは50分の1なのに、感じる喜びは20倍。
下手な例で申し訳ありませんが、要するに、分子の値よりも分母の値の如何が、喜びに大きく影響しているのではないか、と思うのです。
昨今、様々なメディアを通して情報を目にしますが、私たち若者の求める喜びは、先の式でいう分子(与え)の質や量を求めることばかりに偏ってしまってはいないでしょうか。
かく言う私自身が、世の風潮に流され、なんとなく「与えの質=喜びの大きさ」だと勘違いしてしまっているような気がします。
もちろん、向上心などの求める心は必要です。が、それは同時に、分母の数値を上げてしまっていることに注意しなければなりません。喜びに気づきにくくなっていることを、しっかり自覚しなければならないと自戒いたしました。
お道では、
よくにきりないどろみづや
こゝろすみきれごくらくや(十下り目 四つ)
と教えて頂きます。
心のほこりを払い、ふと気持ちを落ち着かせてありのままの世界を眺めた時、今の自分がいかに恵まれているかと気づかされます。
与えの値(分子)を増やすことばかり躍起になるのではなく、知らず知らずの内に上がりすぎてしまった欲の心(分母)を落ち着かせていく。これが「執着を去れば心に明るさが生れる」ということなのでしょう。
もし仮に、分母の値を極限までなくすことが出来たなら、
という式になり、喜びは常に無限大という計算が成り立ちます。
ここまでくれば、もはや分子αの値は、1でも10でも100でも関係ありません。どんな与えでも、常に無限大の喜びとなります。
教祖が「水を飲めば水の味がする」と仰せられた境地は、ここに通じるものがあるのかな、なんて考えたりしました。
とはいえ人間である以上、欲を0にすることなど出来ません。神様も、そんなこと先刻ご承知でありましょう。
だからこそ、
よくをわすれてひのきしん(十一下り目 四つ)
と仰せ下さっているのでしょうか。
確かに、感謝の気持ちから湧いてくる行動(ひのきしん)には、求める心はありません。文字通り欲を忘れている状態です。
そして、
よくのないものなけれども
かみのまへにハよくはない(五下り目 四つ)
とも仰せ下さっています。
ずーっと欲がない、というのは難しいけれど、教会に足を運び、ひのきしんに励んでいる時間などは、一時的に欲を忘れられている状態かも知れません。
教祖の年祭へ向かう旬、欲を忘れる時間が少しでも長くなるよう、神様の御用に励まして頂きたいと存じます。
R186.4.1
参考文献
・中山慶一『ひながたに想う』