22.物の裸・心の裸
青年会本部の一月例会で、大亮様のお話に感激した。
基本方針は昨年と同じ。活動目標の一つに「かしもの・かりものを治める」とあり、大亮様は自らの体験を通して、「裸になる」ことの大切さを話された。
私はとても感銘を受け、いま思案しているテーマと共通していると感じた。つまり、貧に落ちきるひながたも、 「裸になる」ということが大切な角目ではないか、と思案するのだ。
そこで今回は、「裸になる」という意味を掘り下げてみたい。やや抽象的な表現なので、もう少し解像度を上げて考察してみよう。
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おさしづ 明治三十二年二月二日 夜
それまで参詣も無く、日々事を運ぶという事一つも無かった。世界からあんな阿呆は無い。皆、人にやって了て、後どうするぞいなあ、と言われた日は何ぼ越したやら分からん。
(前に一同揃いの上願い出よとのおさしづに付、本部員残らず打ち揃い願い出おさしづ)
教祖伝が公刊される際の講習会で、二代真柱様は、貧に落ちきる歩みの悟り方を、「裸」 「風呂」という例えを用いてご説明くだされた。
長くなるので引用は避けるが、私なりに要約すると以下の通りになる。
教祖は、裸になることからお始め下された。けれど、裸が目的ではなく陽気ぐらしが目的。風呂へ入るために、裸になるのと同じように、胸を掃除して、清らかな心になって、陽気ぐらしの御守護を頂くことができる。
(『第十六回教義講習会』152-153頁をぜひご参照されたい。)
整理すると、次のように表せる。
(手段) (目的)
裸になる → 風呂へ入る
貧に落ちきる → 陽気ぐらし
なるほど。とっても分かりやすい。
たしかに、お風呂へ入る時は裸になるのが一番良い。無理をすれば、羽織袴やネクタイを締めても入れないことはないが、気持ち良くはない。当然だけど、お風呂は裸になって入るから気持ち良いのである。
教祖は、家、財産、身分、伝統など、全てを無くす道から始められた。着ているものを全て脱ぎ捨て、親神様の思召一条に、どっぷり浸かる道の手本をお示し下さったのであろう。
私たちはつい、物やお金、知識や能力がないと、幸せに暮らすことができないと考えてしまう。無知では、貧乏では、おたすけは出来ないではないか―と。
もちろん、それらは間違いではないだろう。陽気ぐらしをするためには、物もお金も能力も必要である。だからこそ神様は、この世界に用意して下さったはずだ。
ただ、ともすれば私たちは、それらに執着するあまり、親神様のお働きを忘れてしまう嫌いがある。それらに執着するあまり、陽気ぐらしと反対の心になってしまうことも、しばしばあるのだ。
物やお金も、知恵や才能も、大前提には親神様の御守護があってこそ。火・水・風のお働きなくしては、それらには何の価値もないのである。
まずは素っ裸になって、万物の根本である親神様の御守護に浴すること。親神様にお凭れしていれば、心一つで陽気ぐらしが出来るという証拠を、教祖がお示し下さったのだと悟らせて頂く。
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ところが「裸」と言っても、おそらく物の裸・形の裸だけではない。重要なのは、 「心の裸」になることではないか。
先のお風呂の例えを用いてみよう。たとえ服を脱いで、温かい浴槽へ浸かっても、心にモヤモヤを着込んでいては、決して良い気持ちにはなれない。
「くそ~あのやろう~。言い返してやる。」
「何で俺ばっかり、こんな目に合うんだ。」
これでは、目に見える姿は裸だが、心は執着しまくり。陽気ぐらしの妨げを、たくさん着込んでしまっている。
物の裸だけでなく、心もスッキリ空っぽになるから、温みと水気に浴して、本当の陽気ぐらしを味わうことができる。
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だけれど実際は、「心の裸」が難しい。
私は教会で育ったので、比較的質素な生活をしてきたと思う。今でも出来るだけ贅沢は避け、物を大切に、勿体ないことのないよう心がけているつもりである。
が、気を付けなければならない。
一生懸命始末して通っている時ほど、
「あの人は、お道の人なのに贅沢だ。」
とか、
「もっと楽で、安く得する方法はないか。」
などと考えてしまう。
これでは、せっかくの始末が台無し。形の上では一枚二枚と脱げていても、心には惜しみ、妬み、恨み、欲望……。相当執着してしまっているのだ。
最近は、そんな自分につくづく反省させられる。
形の裸を心がけると、どうしても心に着込んでしまう。そんな自分の傾向を、しっかり自覚しておかなければならない。
二代真柱様の仰るように、執着を去り、胸を掃除することが大切。 「裸になる」という目標は、物や形だけでなく「心の裸」を目指していきたい。
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さて、ではどうすれば「心の裸」になれるのか。
皆さんは、いかがお考えだろうか。
私の思う答えは、ズバリ、
「おつとめをする」。
これ以上の説明は、必要ないのかもしれない。
ただ教祖は、万人のひながたをお残し下された。道すがらを手本に、様々な思案を巡らせることは、悪いことでないと信じる。
よって、もう少しだけ「心の裸」を目指す道を思案させて頂きたい。
教祖のひながたに思いを馳せ、おさしづなどを読ませて頂くと、私なりに二つのポイントが浮き上がってくる。
① 阿呆になる。
② 欲を忘れる。
冒頭のおさしづで、
世界からあんな阿呆は無い。
と言われたとあるが、教祖の仰る 「阿呆」という言葉は、まことに滋味深い。
どうぞ次回は、 「阿呆になる」の思案にお付き合いください。
R184.3.1
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