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16.五重の相伝は…

『稿本天理教教祖伝』 p16
 
 文化十三年春、十九歳の時、勾田村の善福寺で五重相伝を受けられた。

(第二章 生い立ち)

 誠に申し訳ありませんが、前回に引き続き、もう少しだけ、教祖の信仰心について語らせて下さい。

 やはり教祖は、ちょっと異常なほど信仰熱心だったと思います。

 上に挙げた一文のように、御年19歳で、五重相伝を受けられています。この史実一点だけでも、異常な熱心さは理解されるでしょう。


 では、この五重相伝とは、何なのか。

 ここでは、その中身について詳しく触れませんが、もし、ご興味をお持ちの方がおられましたら、松隈据基先生の「五重相伝について」(『天理教学研究』第五号)をご参照ください(※註)。

 今回は、それを読み、感じたことを述べさせて頂きます。

※天理教校で教祖伝講義を担当されていた松隈先生が、五重相伝についてまとめたもの。教祖伝研究の一環として、ご本部の先生に頼まれ、なんと実際に、五重相伝を受けられたのです。


   ◆
  

 五重相伝は、浄土宗の最高最重といわれる秘密伝法の宗教儀式で、これを受けた者は、浄土信仰の極地に達し得たものとされるそうです。


 善福寺の記録によれば、この日、伝授会に参加したのは、教祖含め19名。それぞれ年齢は定かでないですが、老人達に混じって、一人若い娘さんがいたことを珍しがり、皆が噂していたと伝えられています。

 また、その中でも「心から真剣に受けていたのは中山の御新造さんだけだった」という僧侶の伝聞もあり、教祖がいかに熱心であったかを窺い知ることができるでしょう。

ひながた紀行-02


 ここまで見てくると、今後も教祖は、ひたすら仏教の道に、人生を捧げていかれるのかなと思われます。


 ところが、実際は、違ったようです。

 しかも、むしろ反対。この五重相伝を受けた日を境に、浄土宗の信仰に終止符を打たれたのではないか、とさえ思われる節があるのです。



   ◆


 次の教祖伝の一節を読んでみましょう。


三十一歳の頃、近所の家で、子供を五人も亡くした上、六人目の男の児も、乳不足で育てかねているのを見るに忍びず、親切にも引き取って世話しておられた処、計らずもこの預り子が疱瘡に罹り、一心こめての看病にも拘らず、十一日目には、黒疱瘡となった。医者は、とても救からん。と、匙を投げたが、教祖は、
「我が世話中に死なせては、何とも申訳ない。」
と、思われ、氏神に百日の跣足詣りをし、天に向って、八百万の神々に、
「無理な願では御座いますが、預り子の疱瘡難しい処、お救け下さいませ。その代りに、男子一人を残し、娘二人の命を身代りにさし出し申します。それでも不足で御座いますれば、願満ちたその上は私の命をも差上げ申します。」
と、一心こめて祈願された。(20-21頁)


 よく考えてみると、この文中に、とっても不思議な箇所があります。

 「氏神に」「八百万の神々に」という部分です。

 以前、五重相伝まで受けられたほど、浄土宗の信仰を窮めておられたはずなのに、なぜこの時は、お願いする対象が、氏神様なのでしょうか。普通、窮地のこんな時にこそ、唱える文句は「南無阿弥陀仏」ではないでしょうか……。 


 ちょっと、おかしいではありませんか。

―― あまり深く考えておられなかったのか。軽いお気持ちだったのか。

 そんなはずはありません。最愛の娘二人の命、我が身の命を捧げてまでという、この上ない真剣さです。

―― いやいや真剣は真剣だけれど、願いの対象は、こだわっていないのでは……。

 しかし、五重相伝を受ける時の制誡(戒めるべきこと)には、こんな一節があります。


一、不 レ 可 レ 移 二 余派余流 一 之事。
(前掲「五重相伝について」74頁参照)


 つまり、「余派余流(他の宗派や宗教)に、心を移してしまってはならない」とあるのです。

 あらら。完全にルールを破ってしまっているではありませんか。教祖は、稗田の大師、武蔵の大師、奈良の二月堂など、思いつく限りの神仏に参り、お願いされているのですから。


  ◆


 果たして教祖は、どのようなお考えだったのでしょうか。

 もしかすると、 「南無阿弥陀仏」も唱えておられたのかも知れませんし、そうでなかったかも知れません。現代の私たちには、ちょっと分かりません。

 ただ一つ分かることは、教祖は、仏教の道だけにこだわっていた訳ではない、ということです。

 尼になるために縁談をお断りされた。五重相伝まで受けられたと聞くと、一見、ひたすら浄土宗の道を突き進んでおられるように感じますが、そうではなかったようですね。


 ここからは、あくまで私の推察なのですが、教祖のお心は、どの宗派の教えがどうとか、どの信仰思想がどう、ということよりも、ただ「人をたすけたい」とのお気持ち一心だったのではないかと思います。

 別に、仏教の教えにこだわっておられた訳ではなく、

「目の前の人をたすけたい。ほうっておけない。」

この一点に、こだわっておられたように思うのです。

 その為なら、自分に出来ることは何なりとさせて頂く。乳不足で困っているならお乳を与え、盗人には、その身が可哀そうだとお米を差し上げ、病人には、神様だろうが仏様だろうが、とにかく真剣にお願いさせて頂く……。


 教祖の熱心な信仰心は、信仰そのものをお求めになっていたというより、 「人をたすけたい」という心の一つの現れであった、というのが私の見解なのです。

 皆さんは、どのようにお考えでしょうか。


  ◆


 さて、そうなると、私の心に、猛烈な反省が込み上げてきます。

 私は、教祖の教えを学ぶことが大好きです。お道の教えは、あまりにも魅力的なので、教理勉強は、すればするほど感動が増し、もっともっと掘り下げたい、という気持ちは止まりません。

 ところが、幾何重のお道の相伝を受けたとしても、肝心の人だすけの行動がなければ、本末転倒ではないか。


―― 信仰そのものが目的ではなく、人だすけが目的、陽気ぐらしが目的 ――


 また一つ、教祖から大切なことを学ばせて頂いたような気がします。
 

R184.8.1

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