エノス1章:聖徒たちの喜び〔質問に答える〕
今日は前回に引き続きエノス書から学んだプロセスを紹介していきます。エノスはニーファイの弟ヤコブの息子で、ニーファイの版を書き継ぐように父ヤコブから記録と責任を託されていました。恐らく、ヤコブが兄ニーファイから命じられていたように、限られた余白しか残っていない版に、最も貴いこと、俗世のことではなく神様にかかわる重要な教えや預言、出来事を書き残すようにと言われていたはずです(ヤコブ1:1-4参照)。
そこでエノスが書き記したのは、自分の生涯をまとめた記録で、特に彼の人生のターニングポイント、心の変化、改心にかかわる側面に「だけ」焦点を当てたものでした。今回改めてエノス書を学ぶ中で、彼の心の変化に不可欠な要素であった「主の御霊」の働きについて関心が向かいました。
前回の記事は、ここまでの研究のプロセスをまとめています。
ここからわたしは再度エノス書の冒頭から、「主の御霊」の働きと影響がエノスに及んでいたことを示唆する箇所にしるしをつけながら読み進めました。
「主の御霊」とは聖文の中で、天の御父、イエス・キリストと並んで神会を構成する第三の御方である「聖霊」を指して使われる言葉でもありますが、この神会の御三方から及ぶ影響力を指して使われる場合もあります。
わたしたちの住む地球を照らす太陽は明確に存在しているものですが、太陽はただそこにあるだけでなく、様々な形でわたしたちの生活に影響を及ぼしていて、その光や熱はわたしたちの生命活動に不可欠な影響となっています。わたしたちは日常を生活する中で、太陽から発せられるこれらの影響である光や熱も太陽と不可分に結びついたものであることを自然と受け入れています。
それと同じように、天の御父、イエス・キリスト、聖霊も確かに存在しており、しかしただ存在するだけではなく、わたしたちにとって不可欠な「良い影響」を発していらっしゃいます。そして、それらの良い影響力の数々は神会の御三方と不可分のものとして結びついています。これらの霊的な影響力をひとまとめに「御霊」と呼び、「聖霊」はほかの御二方と同様独立した人格をお持ちの存在ですが、御父やイエス様とは異なり肉体を持たない霊的な存在であるため「御霊」と呼ばれることがあります。そのため、聖文の様々な場面で、混同されて「聖なる御霊」「主の御霊」「御霊」などと呼ばれます。また「聖霊」と明確に記されている箇所でも、人格をお持ちである「聖霊」そのものをさす場合と、聖霊の力や影響を指して「聖霊」と記している箇所もあります。これらの聖霊という存在と神会の影響を厳密に分類することは難しいですし、必ずしも分類する必要もないと個人的には考えています。この記事では、それらを分けずに「御霊」と記述することにします。
御霊について理解し認識するために助けとなる特徴のひとつは、それがわたしたちの「思いと心」に働きかける、ということです(教義と聖約8:2-3参照)。
また御霊のそのような働きは、わたしたちを善に駆り立て、善を望むよう促し、それらの善の源であるキリストを信じる気持ちを高めてくれます(モーサヤ5:2、モロナイ7:16など参照)。
御霊は、イエス様やその教えについてわたしたちの心に理解を与え、固く確信させます(1コリント12:3、3ニーファイ28:11など参照)。
わたしがエノス書を改めて読む中で、エノスの変化のプロセスに御霊の働きかけが及んでいたことを示唆している箇所にしるしをつけましたが、それは以下の通りです。
これらの記述はすべて、エノスが「思い」と「心」に受けた働きを表しています。これらを整理してみると、わたし自身の生活の中に現れている御霊についてもいくつかのことに気づくことができました。
まず得られた理解のひとつは、御霊の影響でもたらされるものはポジティブな感情や感覚だけではなく、それが人をキリストに向かわせるならネガティブな感情や感覚が生じることもあり得るということです。
例えばエノスは、「霊の飢えを感じた」と言っています。この飢えは決して彼の心に心地の良いものではなかっただろうと想像します。エノスは父が「永遠の命と聖徒たちの喜び」について語っていたのを思い出し、それが心に深く染み込んできて、つまり自分にとってこれまで以上にそれが重要な事柄であると感じられたわけですが、その後にエノスの心に迫って来たのは「霊の飢え」でした。この言葉はエノスがその「永遠の命と聖徒たちの喜び」を得たいと強く強く望んだことを表している言葉でもありますが、それを得るためには自分には足りないものがあることを痛烈に感じ、しかもその足りないものを自力では決して獲得することはできないことを認めざるを得なかったということを表しているようにも感じられました。
時々、わたしたちは同じような気持ちを感じることがあります。自分や自分の人生には何かが足りないことを心に感じたり、自分の選択に対して罪悪感を感じたりします。それらの気持ちや感覚は、決して心地よいものではありませんし、時に痛みを伴う感覚でさえありますが、それによってわたしたちが悔い改めやイエス様に近づくよう導かれるなら、それは天からもたらされる善の影響力と判断することができます。また、それらがイエス様がわたしたちをもっと大きな喜びに招いていらっしゃるが故に与えられた気持ちや感覚であることを悟ると、そのようなネガティブな感覚でさえ「神の愛」をわたしたちに表していることを見出すことができます。
イエス様が復活後にアメリカ大陸にいたニーファイ人を訪れらた際に、山上の垂訓と似た説教をされたことが記録されていますが、その中にある言葉はエノスが経験した「キリストに向かわせる霊の飢え」と似たような感覚について教えています。
わたしたちをイエス様に向かわせる影響であるならば、それが当初はネガティブな気持ちや感覚であったとしても、良いものに導かれていきます。先ほどのイエス様の言葉を改めて引用すると次のような約束となります。
実際にエノスも当初は「霊の飢え」を感じながらも、その先に彼の心がポジティブな感覚で満たされ始める様子を見ることができます。
このエノスの変化から学んだ「御霊」についてのもう一つの教訓は、わたしたちが思いや心に与えられる御霊の勧めに自らをゆだねるなら、御霊はわたしたちの改心のプロセスを一貫して導くガイドとなってくれるということです。
エノスの変化を注意深く研究していくと、エノスが一度の経験、一日の熱烈な祈りによってその変化を遂げたわけではない、ということが分かってきます。彼は非常に興味深い変化のプロセスを経験しています。
彼はまず、霊の飢えを感じたところで自分自身の罪を自覚して神様に赦しを求めるようになります。そして、主の声が彼に聞こえて、エノスは自分の罪が赦されたことを知ります(エノス1:4-8)。ちなみに、エノスが聞いた主の声は肉声というよりも、彼が記録しているように「思いに告げる」声(エノス1:10参照)でした。
すると次に彼の心に浮かんできたのは同胞であったニーファイ人の幸いについてでした。そしてエノスはニーファイ人のために祈り始めます。この仲間を思う心からの願いと祈りにも、答えが与えられます(エノス1:9-10)。
このような経験をしていくと、エノスのイエス様を信じる信仰は固く揺るぎないものになっていきました。イエス様が自分の贖い主であり、罪を赦し清めてくださること、自分の愛する人々のための祈りにも答えを与えてくださったことを彼は知るようになりました。
御霊の促しを受け入れることで彼の心はますますイエス様のような愛や純真な望みに満たされ始めます。何と、彼の思いは当時民族的には強い対立関係にあったレーマン人に向かっていきます。彼は、恐らく長い年月に及ぶ様々な葛藤を含んでいたであろうこの変化の物語を、次の短い文章にまとめました。
この短いエノスの言葉の一節で注目するのは、彼がレーマン人を「同胞」と呼んでいることです。当時のレーマン人の様子、ニーファイ人との関係性についてエノスは次のように記しています。
エノスを含むニーファイ人にとって、レーマン人は命や生活を脅かす「敵」と呼べる存在でした。しかし、エノスは彼らを「同胞」と呼び、彼らのために祈りました。
これはまるでイエス様のような心ではなかったでしょうか?イエス様は、自分を受け入れず正しい道に導く御霊の声に聴き従わずに罪を犯す人のために、贖罪を成し遂げられたのです。自分を鞭打ち、十字架につけた人々のために赦しを乞い御父に祈られました。
イエス様の心は、忠実で誠実な人々や天のお父様やイエス様を愛していた人で満たされていたわけではなく、自らを踏みつけ拒み受け入れず、そのため滅びに向かおうとしている人々のことを救いたいという望みと願い、彼ら(わたしたち)を憐れむ思いでいっぱいでした。
わたしたちの改心の度合いとは、心の中にどれだけの人のための場所を持てるかによって測ることができるのかもしれません。エノスの心は、最初は自分自身の永遠の幸いにも無頓着でしたが、自分の救いを願う気持ちを持つようになり、次に家族や仲間のために、そして最後には敵のためにも、彼らの救いと永遠の幸いを願うようになったのです。
イエス様の心の中には文字通りすべての神様の子供たちのための特別な場所があります。それと同じような心を持てるように、少しずつ、長い時間をかけながら、敵を受け入れ愛することのために葛藤と悩みを繰り返し、それを乗り越えながらエノスの心は広げられていきました。そして、このイエス様のような心を持つようになる、という改心のプロセスを導いたのが御霊の働きでした。
最後にもうひとつ、エノスから得られた改心と御霊の教訓は、心が広がれば広がるほど「喜び」が増す、ということです。
エノスはほかの誰かをイエス様のもとに導くことに生涯力を尽くしてきました。それは、彼が愛と使命感に満たされて生涯の務めとしてきたことでした。そして、エノスはそれを「喜び」だったと表現しています(エノス1:26)。さらにエノスは、将来イエス様の前に立つ日を思い喜んでいます(エノス1:27)。彼は自分が救い主の前に受け入れられて、永遠の命を受け継ぐという確信と平安を、生きながらにして得られていたのです。
エノスが自分の記録の締めくくりに心に感じていた喜びについて記していることはわたしにとって大きな発見でした。それは、以前彼の父ヤコブがたびたび語っていた「永遠の命と聖徒たちの喜び」まさにそれでした。彼は、父が教えてくれたその喜びを今や自分自身の心で感じていたのです。
ラッセル・M・ネルソン大管長は聖徒たちの喜びについて次のように教えられたことがありました。
ヤコブとネルソン大管長が語った「聖徒」とはイエス様を救い主と仰ぎ、イエス様を通して神様との聖約関係に入った人です。イエス様の贖いの祝福をより完全に受ける準備のできた人、あるいはその祝福を受けようとより聖約に忠実に生きようとしている人のことです。それは罪がない人、弱さを完全に克服した人を指すのではなく、イエス様のようになろうと心から決意して勇気をもってイエス様に頼ろうとする人です。
エノスは御霊の助けと促しを受けて、そしてイエス様の贖罪によってまさにそのような人に変わっていったのだと思います。そして、彼の喜びは満ちていました。
エノス書から受けた「御霊」についての教訓をまとめます。
時にネガティブな感覚も含め、思いと心に働きかけることを通して御霊はわたしたちを救い主にもっと向かわせる
そのような御霊の促しに自分自身をゆだねていくと、御霊に導かれるわたしたちの心は、イエス様のような心へと変化を遂げていく
そのような改心を深めていくことで、「聖徒の喜び」と「永遠の命への確信」はさらなる御霊によって広げられたわたしたちの心にますます満ちていく
そして、わたしは今心の中に次のように問いかけています。
わたしは、わたしをイエス様に向かわせようとする毎日の御霊の感覚に気づいていますか?
わたしの心が今どのような状態かにかかわらず、イエス様のような心を持とうと望み、そのために働きかける御霊に素直になっていますか?
わたしは今、自分の永遠の命に希望を抱いていますか?それがイエス様を通して自分自身にも与えられると確信していますか?
わたしの心は、「聖徒たちの喜び」を感じていますか?
今日はここまでです。先週のエノス書からの学びのプロセスが、今後の生活の中で、実際のわたしの変化のプロセスに結びつき、イエス様のような心になるまで心を広げるプロセスに反映されるように祈っています。
そしてわたしの心にも読者である皆さんの心にも聖徒としての喜びが湧き上がってきますように。
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