モーサヤ書1-3章・4-6章:クリスチャンとなる〔質問に答える〕
少し間が空いてしまいましたが、前回の記事からの続きです。前回からモーサヤ書1-3章を学び始めました。ニーファイの民を治めていたベニヤミン王は年老いて、息子モーサヤへ王位を継承することになりましたが、最後に全国民を神殿に集めて、ある特別な目的をもって語り始めます。ベニヤミン王は「民に一つの名を与え」ると言っています。
今回の1-3章と4-6章の学習では、このベニヤミン王が民に与えると言った「名前」に焦点を当てて学ぶことにしました。そして、実際に民がその名前を受けるまでのプロセスに注意を向けてみたいと思いました。
前回の記事を読んでない方は、こちらから読んでください。
ベニヤミン王が全国民を集めて、彼らに与えると言っていた名前とは、「キリスト」でした。彼は次のように民に語りかけています。
一人の人にはいろいろな呼び名や肩書があります。その呼び名は、その人のすべてをあらわしているわけではありませんが、その人のある側面を強調するために使われます。イエス様についても同様です。聖典を学んでいくと、イエス様の様々な使命、役割、特質などをあらわすために実に多くの呼び名や称号が使われていることがわかります。例えば、神の独り子、救い主、贖い主、世の光、平和の君、仲保者、わたしは有るという者、父に対するあなたがたの弁護者、などです。
ここで、ベニヤミン王はニーファイ人に対して、決して忘れてはならない彼らの大切な一面を強調するために「キリストの子」という呼び名を与えました。この呼び名が、いったい彼らの(わたしたちの)どのような側面をあらわすものなのだろうかと考えました。
わたしは自分たちが神様の子供であると信じています。わたしが今このように生きているのはわたしには両親がいることの証拠です。わたしの両親はわたしの肉体における父と母です。それと同様に、神様はわたしたちの霊をおつくりになり、わたしたちに命を与えてくださった御方です。そのような意味で、わたしは神様の子供であり、神様はわたしの「たましいの父」(へブル12:9)です。
「子」という称号は、命が与えられた存在としての一面を強調するものだともいうことができます。「子」であるからには、その命をもたらした親がいるということを暗に示しています。では「キリストの子」だと呼ばれたニーファイ人たちは、どのような意味でキリストから「命」が与えられたのでしょう?先ほどのベニヤミン王の言葉にヒントがありました。
「霊的に子としてもうけた」ということを指して「心が改まった」と説明しています。日本語でも、「心を新たにする」「改心して生まれ変わったつもりで…」のように表現することがありますが、まさにこれはそういうことなのでしょう。聖文を調べてみると、「再び生まれる」という言葉がイエス・キリストと関連付けられて使われている箇所がいくつもあります。「聖句ガイド」の「再び生まれる」の項を調べるといくつかの参照聖句を見つけることができます。
さて、この聖句に教えられているような「堕落した状態から義の状態に変わる」こと、見たこともないキリストを「愛している」、「生ける望みをいだき」「言葉につくせない、輝きに満ちた喜びにあふれている」状態になる、つまりこれまでとは全く違った心で、全く違った生き方をするような変化を、しかもその変化をイエス・キリストを通して遂げるプロセスをベニヤミン王の民はどのようにたどったのでしょうか?
このときニーファイ人がたどった心の変化のプロセスは、わたしたちが歩むことのできる変化のプロセスでもあります。ニーファイ人は自分の心が改まったことの鍵を次のように自らの言葉で表現しています。
民はベニヤミン王が語る主の御言葉に耳を傾け、それが真実であると思いと心に告げる御霊に対して胸と心を開きました(モーサヤ2:9との関連に注目)。そして、それらを信じました。
ベニヤミン王は民が「キリストの子」となるために「心を入れ替え」「生まれ変わる」プロセスをどのように導いたのか、どのように教えを加えていったのか改めてモーサヤ書2-5章を見てみます。
モーサヤ2章:あなたと神様との関係を教える
ベニヤミン王は民の置かれている立場と神様との関係性を解き明かしました。神様は、少なくとも今は、目に見えない存在であるために、その実在も自分との関係性も理解しにくいものです。目に見えない神は存在しないとか、目に見えないために仮に実在したとしても自分の人生には関りのない存在であると感じている人も少なくないかもしれません。
ベニヤミン王は、そのような神様、更にはその神様と自分との関係性を改めて民に教えるために、目に見えるベニヤミン王自身と民との関係性を象徴としてもちいて教えています。ベニヤミン王が教えようとしてきたことの要点を、わたしが今回学びながら理解できた限りで整理してみます。
王である自分も、あなたたちと何ら変わりない存在です。わたしたちは皆等しく尊ばれるべき存在です。
ベニヤミンは自分の王としての立場と王として民に務めるための勢力と力はすべて与えられたものであることを認めています。それら与えられたものは彼にとって自分がどのような存在であるかを証明するものではありませんでした。むしろ、自分は国民一人一人と同じ弱さや不完全な性質をもった人間であることを明確にしています。
にも関わらず、ベニヤミン王は自分も含めた不完全な人間が、神様にとって途方もない価値を持った存在であると考えていたことが次の言葉に示唆されています。
彼は自身が王として民のために働いてきたことを神様に仕えてきたこととして考えており、互いのために働くことは同じように神様に仕えることと同義であると民に説明しています。このことから想像するとベニヤミン王は自身の生涯の生き方、働き方を一貫してそうするほどに次のことを固く信じていたのではないかと考えました。
人間とは、神様の子供として貴い価値を持ち、不完全さや弱さに関わらず本質的に、その先に神様を見ることができる神聖な存在である。
神様は人が幸せになることを心から求めておられるがゆえに、わたしたちが誰かの幸せのために務めるような生き方をすることで(仕える自分も仕えられる人も幸せになるため)、神様を喜ばせることができる。
しかし、そのような自分にさえあなたたちが感謝の念を向けてくれるなら、「天の王」があなたに与えてくださっているものを認識し、なおさら感謝しなくてはいけません。
民はベニヤミン王を心から愛していました。彼の民であることを誇りに思っており、彼がそれまで自分たちのために何でもしてきたすべてのことに真心から感謝していました。民は、ベニヤミン王が自分たちの安全のために自ら剣をふるって戦ってくれたことを知っていましたし、王の骨折りのおかげで現在の豊かさと平和があることを認めていました。王は民に必要以上の税や苦役を求めることがなかったことも、自ら率先して民と同じように額に汗して働いていたことも知っていました。
民にとって、ベニヤミン王が偉大な王であると同時に、自分たちのことを心底大切に思ってくれているという事実は今更正否をあげつらう必要もないほど明確なことでした。その証拠は、国中のいたるところに見出すことができましたし、民の現在の生活そのものが王の偉大さと愛を証明していました。
しかし、たとえそうだとしてもベニヤミン王が自分の民のために尽くしてきた功労と、民が自分に向けてくれている敬愛を、わざわざ改めて丁寧に話したのは、自分と民との関係を通して神様の存在と神様のその子供たちに向けられた愛の証拠を認識させるためであったと思います。
ベニヤミン王が教えた、神様と民との関係性は、同じように神様とわたしたちとの関係性でもあります。わたしたち自身とわたしたちの生活の中にも、目には見えない神様の存在と神様の愛についてのあふれる証拠を見出すことができます。
天の王=神様はこれほど多くのものを与えてくださっているにも関わらず、わたしたちに求めておられるのはただ「戒めを守ること」だけです。
わたしたちが生きている世界では、どのようなものにも対価が求められます。何か商品や体験を得たい、サービスを受けたいと思えばわたしたちは基本的にそれに釣り合う価値を持ったものを支払うことになります。しかし、冷静に、注意深く、神様から受けているものを数え上げるとすれば、それに釣り合う対価を一体わたしたちはどのように支払うことができるのでしょうか?
求められているのは神の戒めを守ること「だけ」です。神様から受けているものと比較するなら、「神の戒めを守ること」とはいったいどれほどのことだというのでしょう?自分自身に正直になるなら、決してわたしたちは神様から受けているのと同等のお返しなどできないということを認め、唯一求められていることである神の戒めを守るということが何と些細なことだろうと驚くはずです。
その「戒めを守ること」さえも、あなたがさらに豊かに祝福を獲得できるようにするためです。
神様はなぜ、このような釣り合わない要求をされるのでしょう。わたしたちが受けているものに比べれば、神様がわたしたちから受け取れるものはどれほどのものでしょうか?ベニヤミン王の教えを読んでいると、神様にとってもイエス様にとっても、わたしたちとの関係性においては釣り合うことも、御自分が得をすることも関心のないことなのだということに気づきます。神様とイエス様の関心事はただ一つ。わたしたちを幸せにすることです。主はすでに与えてくださっているものにとどまらず、もっと多くを与えるために準備してくださっているのです。そして、わたしたち神様の子供たちがそれを受け取れる自分自身になれるような生き方を示してくださっているのです。それが「神の戒め」です。
ベニヤミン王は自分の最後の説教の冒頭で、できる限り分かりやすく、わたしたちと神様との間にある特別な関係性について教えようとしていると感じました。
わたしたちは神様にとって貴い価値ある存在です。そのわたしたちがもっと幸せな状態になることは、神様とイエス様にとって最大にして唯一の関心事です。わたしたちが心を開けば、そのことを教える明確な証拠は、わたしたちの生活のいたるところに見出すことができます。神様はわたしたちのためにもっと高い喜びを備えておられ、それを心に満たす生き方を示してくださっています。
モーサヤ3章:胸躍る大いなる喜びのおとずれ―イエス・キリストの来臨と贖罪
次の章では、神様がわたしたちを愛しておられることの最大の証拠であり、わたしたちのための喜びと幸福の根拠となる大切な真理に焦点を移しています。次のように要約してみます。
ベニヤミン王は天使の訪れを経験し、天使はベニヤミン王とその民が喜びに満たされるためのメッセージを携えてきた。
ベニヤミン王は、ここで彼自身が経験したことに話題を移します。それは、「将来起こる出来事」に関連した経験でした。
天使とは神様のメッセージを携えてきた特別なメッセンジャー、天の使者のことです。天使が携えてくるのは天使自身のメッセージではなく、彼を遣わした御方のメッセージであり、その御方が果たしたい目的を成し遂げられるために天使は遣わされます。
この時ベニヤミン王を訪れた天使は、何よりもまず、自分が遣わされた目的を明確に語りました。
ここでも明確に示されているのは、神様にもイエス様にも、神様の子供たちの幸福を願う以外の目的はないということです。神様がどのような御方なのかを理解することは、同時にわたしたち自身がどのような存在なのかを理解することです。神様は偉大でどこまでも愛の深い御方です。そしてわたしたちは、そのような神様の目的そのものであり、神様はわたしたちのための特別な場所をその心にお持ちであるほどに、わたしたちは貴く大切な存在なのです。次のウークトドルフ長老の言葉が思い出されます。
イエス・キリストが地上に生まれ、奇跡をおこない、贖罪を成し遂げられた。
天使は当時のニーファイの民にとっての将来に、信じられないほど栄光にあふれた出来事が起こると告げます。文字通りの意味で、神様のような存在であったイエス・キリストが、肉体を受けて、この地上に生まれるというのです。しかし、ただ生まれるだけであればそれはほかの赤ん坊とどれほどの違いがあったのでしょう。イエス様の誕生が特別だったのは、主がその肉体をもって成し遂げてくださったことによります。
イエス様が経験された苦しみや痛みは、わたしたちがこの人生で経験するあらゆる間違いや罪、弱さのために引き起こされるあらゆるネガティブなものでした。イエス様は、わたしたちの理解の及ばないような方法で、すべての神様の子供たちの罪と弱さの結果をご自身に負われました。それが、わたしたちとどのような関係があるというのでしょう。ベニヤミン王は少なくとも次の3つの恩恵がわたしたち神様の子供たちにあることを説明しています。
自分たちに関する神の御心、つまり神様がわたしたちを真心から愛しておられ、わたしたちの救いのために意図された計画があることを知らずに死んだ人、あるいは気付かないで罪を犯した人たちの罪を贖う、すなわち肩代わりする(モーサヤ3:11参照)。
自分が神に背いていること、つまり正しくない生き方をしていることを承知している人でも、イエス・キリストを信じ悔い改めるなら、罪の赦しを受けることができる(モーサヤ3:12-13参照)
幼い子供たち、すなわち自分の選択に対する責任能力のない無垢な人たちも、すでに贖われている(モーサヤ3:16・18参照)。
救いは、イエス・キリストとその贖罪を通してのみ与えられる
これら天使が告げたこと、つまりイエス・キリストが救い主としてこの地上にお生まれになり、神様のすべての子供たちの罪と弱さを贖う御業を成し遂げられる、ということはすべて、当時のニーファイ人にとって「将来起こる出来事」でした。
イエス・キリストの贖罪について学ぶときに、その効力が時間を超越して実際にそれが成し遂げられる以前にも及ぶことを不思議に思う人がいます。このベニヤミン王の説教の中にも、次のような言及があります。
聖文のそのほかの箇所でもイエス様の贖罪の効力が時間を超越して及ぶことについて示唆されている場面がたくさんあります。例えば、イエス様の愛弟子ヨハネはその黙示録の中で、わたしたちが生まれてくる前に天でルシフェルとそれに従った霊たちとの間に起こった戦いにおいても、神様に従う軍勢―わたしたちに主の贖いにより力を及んでいたことを見ました(黙示録12:11参照)。これは、イエス様の贖いの効力が、この地球が造られる以前にも及んでいたこと示しています。
この不思議に思えることも、似たようなことがわたしたちの現代の生活の身近な例に見ることができます。わたしたちも、代価が実際に支払われる前に、あたかも支払いがあったかのように商品やサービスを手に入れる、ということを経験してはいないでしょうか?
例えば、クレジットカードで買い物をする、というのはまさにそれです。それは、商品やサービスの代価が必ず支払われるという「信頼」を担保に、すでにその代価が支払われたかのように購入する方法です。実際に口座からお金が引き落とされるのは「後日」となります。
イエス・キリストがわたしたちの罪の代価を実際に支払われる前の時代に生きていた人が、その効力を受けて罪が赦されたり清められたりすることはそれとよく似ています。イエス様は必ず贖い主としてのご自身の使命を果たされる、すべての苦悩を乗り越えられるという完全な信頼を天父から受けておられたために、その効力は時間を超越して発揮されることになります。そして、個人の視点に立つなら、わたしやあなたという特定の個人にその救いの力が発揮されるためには、わたしたちがイエス様を自分の救い主・贖い主として「信頼」し、それをあらわさなければなりません。その第一歩はベニヤミン王の次の言葉を受け入れることです。
イエス・キリストとその贖罪には、わたしたちの罪を清め、心を変え、生まれ変わるのに十分な力がある。
イエス様の贖罪には、その人がいつ・どこで生きたかに関わらず、一人一人、個人個人の本質的な変化をもたらす力があります。ベニヤミン王は、わたしたちはこのすべてを変えるほどの天の力にアクセスし、実際に自分自身を変える必要があることをはっきりと教えています。
自分が新たに生まれることを求めずに人の弱さや堕落したままの性質にとどまる人は「神の敵」であるというのは、少々ショッキングな言葉です。それに対してどう受け止めているかは別として、誰もが自分の不完全さや罪を認識していることでしょう。このことを誤って理解して、不完全で罪のある自分は神様に愛されていない、わたしは神様に受け入れられていないと信じることは大きな間違いです。ベニヤミン王は決して、神が「わたしたちの敵」とは言っていません。
何度も繰り返しますが、神はわたしたちを救いたいと願っておられ、神の唯一の関心事はわたしたちの最上の幸福です。イエス様はそのために、他の誰も耐えようのないほどの苦しみを忍ばれ、自らの命をもいといませんでした。それは、堕落した状態のわたしたちに向けられている神様の普遍的な愛の表れです。この神様とイエス様の愛は、わたしたちの状態や選びに左右されません。
ベニヤミン王が言っているのは、わたしたちが、自らの選択によって「神の敵」になってしまっている、ということです。そしてそれは同時に、わたしたちは自らの選択によって「神と和解」し、罪を清めて心さえ変える天の力にアクセスすることができるということでもあります。
ベニヤミン王は、「聖なる御霊の勧めに従い、主なるキリストの贖罪により生まれながらの人を捨てて聖徒となる」という選びを先延ばしにすることにより、どのような結果がその先にあるかについても、率直に教えています(モーサヤ3:24-27参照)。
ジェフリー・R・ホランド長老の次の言葉は、わたし自身とわたしが見聞きしてきた経験からの実感としても、真実であると確信しています。
モーサヤ4章:イエス・キリストを信じる生き方とそれに伴う祝福
これらのことを学んだニーファイの民は、正直な心になって自分の現在の置かれている状態について明確な視点を得ました。そして、自分には救い主の助けがどうしても必要であることを悟り、その助けを求めることをはばかりませんでした。
民に生じたこのような心の動きを目の当たりにして、ベニヤミン王は教えを続けました。次のように要約してみます。
贖罪を通して備えられた救いを受けるための条件:キリストを信じること
ベニヤミン王は、イエス様の贖罪の効力を受ける人の特徴を次のように要約し、それこそ今民が自覚している状態であると教えました(モーサヤ4:5-8参照)。
その人は……
神様がどれほど大きなものをわたしたちに与えようとしておられるか、そのためにどれほど大きなものを捧げてくださっているかを認識する。
それに比べて、自分は何と無力で小さく、堕落した状態にあるのか、自分はどれほど神様に依存し、主の助けを必要としているのかを認識する。
しかし、たとえ自分がどれほどちっぽけな無に等しい存在だとしても、その自分を救い、引き上げるためにイエス様の贖罪が備えられたのだということを認識する。
神様には、そのようなわたしを救うのに十分な愛と慈しみがあり、力と知恵をお持ちであり、わたしたちの救いに至るまでの変化と改心を見守り、導くのに十分な忍耐と寛容さが備わっていることを悟る。
そして、わたしたちはそのような主に頼り、求められている戒めを守ることで、生涯の最後まで一貫してイエス様への信仰をあらわせばよいのだと悟る。
キリストを信じるという生き方がもたらす祝福:喜びを感じ、愛で満たされ、罪を赦しを保ち、正しく真実な事柄をますます知るようになる。
ベニヤミン王は、今この場での決意や変化は、一瞬の気持ちの高まり、ある一時期の表面的な変化ではなく、その後の人生を貫くプロセスであることを強調しました。「キリストを信じる」ということはその場面その場面の気分の問題ではなく、クリスチャンとしての生き方なのだと強調しました。
そして、ベニヤミン王はクリスチャンとして変化と成長を続け、主の贖罪の効力を受け続ける生き方の具体的な例を挙げました。
平和をつくりだす者になる(モーサヤ4:13-15参照)
貧しい人や助けを必要としている人に手を差し伸べる(モーサヤ4:16-27参照)
自分の思い、言葉、行いに注意を払う(モーサヤ4:28-30参照)
モーサヤ5章:心が変わることをその瞬間の出来事ではなく、救いのプロセスとするための鍵―聖約を交わす
ベニヤミン王がここまで語り終えたところで、民は自分自身の中に起こった「生まれ変わる」ほどの変化を次のような言葉で表現しました。この記事の前半でも引用しましたが、もう一度読んでみます。
これは心の変化であり、新たに生まれると表現されるほどの変化でした。これは、ある生活の一部や実践方法を改善するというような小手先のものではなく、生き方そのものを変えたいと思わせるほどのインパクトのある促しであり、決意でした。
そして、ベニヤミン王が教えたことを心から信じた民は、この自分の中に起こった変化は主の助けなしには起こりえなかったことであり、この変化を持続させ、自分の中に沸き起こったクリスチャンとして生きるという望みを完遂するためには、イエス様の贖いの効力と御霊の助けがどうしても必要であることがはっきりわかっていました。
そのため、彼らは求めていた祝福と助けを受けられるように「聖約を交わす」ことを決意したのです。
この聖約は、主と個人との間で交わされる神聖な約束です。そして、自らの選びによって主とのこの特別な関係を結ぶ人を、イエス様は決して見捨てたり諦めたりはなさいません。
この聖約は、神様から見れば決して釣り合うことのない不平等な約束です。神様は、わたしたちが必要とするすべての助けや力、犯した罪に対しては赦しと清め、最終的には神様がお持ちのすべての善いものを与えるという約束してくださいます。それに対して、神様がわたしたちに求めておられることはただ、「神様の戒めを守ること」だけです。
そして、このわたしたちにとってはこの上なく有利な約束を、神様から不履行とされることは決してありません。
モーサヤ6章:これからも続く永続的な変化のプロセスをサポートするための教会組織
クリスチャンとして生きることを約束した民は、ベニヤミン王が当初から目的としていた、「キリストの名前」を自分自身に受けることになります。
このような決意と心の変化は、同じようにわたしたちが神様の存在とその偉大さと愛、自分自身の価値、神様と自分との関係性、救い主イエス・キリストとその贖罪を正直な心で認め、受け入れ、信じるときに、わたしたちの心の中にも起こる普遍的な変化です。
とは言え、この一貫した変化は最後まで成し遂げることは、不完全なわたしたちにとって並大抵のことではありません。イエス様は聖約を交わした主の民が、最後までその道を歩み続けられるように、道を外れた人が再び戻って来られるように、聖約の道のプロセスを互いに助け合うことが必要であることもご存じでした。
ベニヤミン王は、自身の退位に伴い、聖約を交わした人々のためのサポート組織を一新しました。
これが教会がある理由です。末日聖徒イエス・キリスト教会は、神様の子供たち一人一人が自分自身のためにキリストを通して神様と聖約を交わし、その交わした聖約を生涯の最後まで守り続けることができるように、そうして一人一人が人生で必要とするあらゆる天の助けを受けることをサポートできるように存在しています。
そして、わたしも含めて末日聖徒イエス・キリスト教会の会員はその交わした聖約と教会の一員であることで、互いと互いの幸福のために責任をおっています。
ここでわたしの心に迫ってくる質問
このようにベニヤミン王の教えを頼りに、わたしが必要とする心の変化、その変化を起こすためにわたしが理解すべき真理、心に受け入れて信じるべき救い主、そしてわたしが聖約を交わしたことの意味とそれに伴う決意を改めて学び、整理し、頭と心での理解を深められたことで、次のような質問が心に迫ってくるのを感じました。
わたしの戒めを守るという選びは、謙遜さと神様への感謝を伴なう決意となっているだろうか?それとも、単なる身についた生活様式や行動規範として繰り返されているだけのものだろうか?
わたしの変わりたいという望みと、変わるための力と助けを求める態度は、決意をしたあの時から一貫したものだろうか?
神様とイエス様の愛と自分自身の尊い価値、イエス様の贖いへの証はますますわたしの心に深く刻まれているだろうか?
わたしが今、他の誰かが聖約を交わし守れるようにできることは何だろうか?
さて、今日の記事はここまでにします。
長くためこんでしまった分、またベニヤミン王の説教の奥深さも相まって、大変長々とした記事となってしまいました。
今回取り上げた教えと、聖文を研究するプロセスにおける以下のアプローチの力強さを読者の皆さんに感じていただければ嬉しいです。
一貫したテーマを見出す
学んだ真理を要約する
同じ真理を教える聖文の他の箇所、学んだ真理をさらに発展させている聖文の他の箇所と関連付けて調べる
何を学んでいる時にも、イエス・キリストとその贖罪に焦点を当てる
自分自身と自分の生活に当てはめる
それではまた次回の記事で。
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