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ヤコブ5-7章:オリーブの木の譬え―イエス様は諦めない〔質問を尋ねる〕

モルモン書という書物は、イエス・キリストを証ししている聖典です。聖書で教えられている同じイエス・キリストの神性、その愛と憐れみ、御父の計画における役割と使命、無限の贖罪、救いがテーマとしてつらぬかれています。そしてそれは、イエス様にとって「わたし」がどのような存在なのか、限りなく広がり続ける広大な宇宙にあって、チリほどもないちっぽけな「わたし」にどれほどの大きな価値が見出されているのかという証を打ち立てるものでもあります。

もしあなたが、イエス・キリストとその教えに興味をお持ちであるなら、それだけでなく、自分自身についてもっと深い理解を得たいと思うなら、聖書と共に、モルモン書を学ぶことをお勧めします。

今週はヤコブが、ゼノスという預言者が語った「オリーブの木の譬え」を記したヤコブ5章、その譬えをヤコブが解き明かしている6章、キリストについての証の重要性を教える7章を学んでいきました。これらの章を学ぶために用いた質問、わたしがたどったプロセスの一部を紹介したいと思います。

聖文を学ぶとき、わたしが心がけていることのひとつは、文脈と著者の意図を念頭に学ぶことです。学ぶ中で、自分自身の解釈、その時に自分が感じた気持ちが重要ではないということではありませんが、解釈も心で感じ取るものも、文脈と著者の意図とかけ離れたところで展開されるとしたら、真の教えからもかけ離れてしまう可能性があります。むしろ、それらの前提に立ったうえでの研究は、学ぶべき真理をもっと明確に、浮き彫りにしますし、そのような理解はもっと心に訴える強い印象をもたらします。

もちろん、前提は出発点であり、学びというのはそこからライブで展開されていくものです。出発点を明確にした上で、今週どのような学びに導かれるのかを楽しみにしています。

ヤコブ5章に記されている「オリーブの木の譬え」は非常に興味深いものです。この譬えは広く深い意味を含んだものですが、わたし自身はオリーブをどのように栽培するのかよく知りませんし、オリーブの果樹園を実際に見たこともありません。この譬えが意図している教えを見出す上で聖文そのものを研究することは大前提ですが、最近では末日聖徒イエス・キリスト教会が制作している「モルモン書ビデオ」が聖文に記されていることをイメージすることに役立ちます。

この譬えを書き記す前に、ヤコブは何を明らかにするためにこの譬えをもちいるのか、引用の目的を記しています。

さて、愛する人々よ、わたしがこれらのことをあなたがたに述べているのを驚いてはならない。キリストの贖罪について語るのに、……キリストについて完全な知識を得るのに、何の差支えがあろうか。……
そして今、わたしヤコブは、預言するように御霊に促されている。わたしは、わたしの内にある御霊の働きによって、ユダヤ人が、自分たちがつまずいたためにそのつまづいたを拒むことを知っている。そのは、その上に建物を建てることのできる安全な土台であった。
しかしながら見よ、聖文によると、そのは、ユダヤ人がその上に建物を建てることのできる、偉大な、最後の、しかも唯一の堅固の土台となるものである。
さて、わたしの愛する人々よ、これらの者がその堅固な土台を拒んだ後に、どうしてそれを隅のかしら石として、その上に建物を建てることができるであろうか。
見よ、わたしの愛する同胞よ、もしわたしが何かによって強い御霊を失ったり、あなたがたを心配するあまり口ごもったりするようなことがなければ、わたしはあなたがたにこの奥義を明らかにしよう。

モルモン書ヤコブ書4章12,15-18節

ヤコブはこのように「わたしはあなたがたにこの奥義を明らかにしよう」と言った後に、オリーブの木の譬えを引用しました。

「この奥義」が何を指しているかが分かるように整理したいと思います。

  • ヤコブは民と記録を読む人に、「贖罪について……キリストについて完全な知識」を得てほしいと考えていた

  • ユダヤ人は自分たちが「つまずいた石」を拒む

  • この「石」はユダヤ人がその上に建物を建てることのできる「唯一の堅固な土台」となるものだった

  • 自身が拒んだ「堅固な土台」「隅のかしら石」として、建物を建てることができる

これらのヤコブの言葉の中で用いられている「石」「隅のかしら石」は明らかに詩篇の次の言葉を指しています。

家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。
これは主のなされた事でわれらの目には驚くべきことである。

旧約聖書詩篇118篇22-23節

そしてイエス様は地上での務めを果たされていた間、イエス様が天から遣わされた救い主であることを受け入れないユダヤ人たちに痛烈な指摘をされました(マタイ21章、マルコ10章、ルカ20章参照)。主はその時の教えの一部にこの聖句を引用されました。この時のイエス様の言葉には明確に、イエス様ご自身こそがユダヤ人に拒まれる「石」であり、建物を建てるための堅固な土台となる「隅のかしら石」であるという意図が込められていました。

十二使徒の頭であったペテロは、復活されたイエス様を宣べ伝えたことで投獄された際に、この詩編の聖句を引用して、イエス様について証しました(使徒行伝4:10-12参照)。パウロもエペソ人への手紙の中でやはりこの「隅のかしら石」はイエス様であると書き送っています(エペソ4:10-12参照)。

これを踏まえて考えるなら、ヤコブが民に明らかにしたかったことは、ユダヤ人を含むイスラエルの家がイエス様を自分の救い主として受け入れず拒んだにも関わらず、拒まれたイエス様がどのように彼らの救いの確固とした基となることがでるのか、ということでした。

ヤコブがオリーブの木の譬えを引用した目的を、わたしなりに次のようにまとめてみます。

①イエス様は拒まれても彼らの救い主であることを決して諦められない
②人にとって、罪や背きはイエス様との関係を決定的に断ち切るものではなく、再び自分の救い主との関係を築き直すチャンスを主は用意してくださっている

ということを明らかに教えるため。

このような出発点に立ったうえで、次の質問を浮かべながらヤコブ5-7章の学びに入っていきたいと思います。


  • オリーブの木の譬えは、どのようにイエス様とイスラエルの家との関係を表しているだろう?

  • オリーブの木の譬えは、イスラエルの家が救い主を拒んだこと、それでもなおイエス様が彼らの救い主となられるということをどのように教えているだろう?

  • オリーブの木の譬えは、イエス様がどのような方法でイスラエルの家を愛し、手を伸べておられたことを表しているだろう?

  • オリーブの木の譬えを学ぶことは、後の世に生きている現代の人々やわたしにとってどのような意味のあることだろう?

  • オリーブの木の譬えを学ぶことで、イエス様とわたし自身についてどのような理解の光が照らされるだろう?


今日の記事は皆さんがオリーブの木の譬えを学ぶにあたり、大切な出発点を整理するのに役立つかもしれません。わたしにとってそうであったように、皆さんにとってヤコブ5章を学ぶことがこれまで以上に学び深い経験となるように願っています。最近の記事は少し文字数多めになってきていましたが、今日は少しおさえてここまでにしたいと思います。(でも、この続きの記事はまた長くなりそうな気もします…)

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