モーサヤ書7-24章:影響と選択〔質問を尋ねる〕
わたしはクリスチャンの家庭の育ち、様々紆余曲折を経て、今は自分自身の信仰でクリスチャンとして生活しています。現在の自分があるのはなぜなのかと時々不思議に思うことがあります。現在の自分の生活の中にある多くの素晴らしいもの、イエス・キリストへの信仰も、どのようにして今ある状態にまで至ったのか、振り返ってみると家族や人や環境がわたしに与えた影響は決して無視できません。出来事や出会いのタイミングも重要な要素だったと思います。しかし、自分の外で起こることや他の人の意志に流されるように今あるところにたどり着いたわけでもなく、わたし自身が生来持っていた性質や、成長に伴って自分自身の内外の様々な要素によって磨かれていったもの、そして最終的には自分の意志と選びの力も実感します。そして、それらすべてが神様の深い憐みの御手によって導かれたものであることは間違いありません。
さて、わたしは今年になってから思い立ち、自分の毎日の聖文研究のプロセスをこの記事によって共有しようと決心しました。
モルモン書や聖書などの聖文を学ぶと、それらは単に教義や戒律が羅列されているものではなく、わたしと同じように様々な葛藤を経験し、自らの人生を歩んでいたたくさんの登場人物に触れるものであることに気づきます。そして、それらの登場人物は学習者であるわたし自身と様々な面で重なる部分を持っています。
聖文を学ぶことの面白さや奥深さは、単に「○○は●●である」と断言されている教えを読むことではなく、学び、深く考え、探し、比較し、分析し、調べるなどを通して彼らの人生の記録やそれらの人生からにじみ出る言葉な行動に隠されている普遍的な真理を見つけること、それらを自分自身に当てはめたり置き換えたりすることで、自身の人生や日常にも同じ真理が確かに生きていることを確認することにあると感じています。
前回までのベニヤミン王の説教のあとに続くのは、そのような多くの登場人物の歩んできた人生の道のりの物語です。この記事は「わたしに従って来なさい」の読書ペースに従うなら3週分の範囲をカバーしています。
まずは、今回の学習範囲の登場人物の中で、わたしが特に心を惹かれた人たちを紹介します。
ゼニフ:ゼラヘムラの地に移り住んでいたニーファイの民の中から、先祖が住んでいたニーファイ・リーハイの地へ行きたいと望んた人たちの一団を率いて、当時それらの地を治めていたレーマン人の王との交渉を経て移住を果たした。レーマン人の策略や侵略にも関わらず、主に頼って力を得て、民の中に平和を確立した。
ノア:父ゼニフから王位を継承した後、統治体制を全く変えてしまい、自分たちの放埓な生活のために民に重税を課した。彼の悪政は民の中に反乱を引き起こし、悔い改めるようにという主の預言者の言葉にも耳を傾けず、最終的にノアの民はレーマン人の侵略により奴隷の状態に陥る。彼自身は最後まで自己保身に終始し、民の怒りにより殺される。
リムハイ:ノアの息子であったが父親の道は歩まず、奴隷の境遇を忍び、苦難の中にあっても正しく民を治めようと努めた。かつて祖父ゼニフたちが出てきたニーファイ人の地であるゼラヘムラから派遣された探索隊によって見出され、レーマン人の奴隷の状態から逃れることができた。ゼラヘムラの地のニーファイ人と合流し、そこで自分の民とともにバプテスマを受けた。
これらのゼニフ・ノア・リムハイの親子3代に及ぶ物語の背景を理解できるように、オムナイ書からモーサヤ書にかけてのニーファイ人の移動を以下にまとめてみます。
この親子3代の物語は、わたしたちが自分の意図しない状況下(ほかの人の選択の結果)から受ける影響と、それでもなお最終的な選択をする力という誰からも侵害されない聖域を誰もが持っていることについて深く考える機会を与えてくれるものでした。
ゼニフが環境やほかの人の選択から受けた影響と彼の選び
例えばゼニフです。彼はもともとゼラヘムラの地からリーハイ・ニーファイの地への移住を試みた最初のグループの一員でした。その地に定住していたレーマン人をどう扱うかについてこのグループの中に意見の不一致があり、その内部分裂のために移住は失敗に終わりました(モーサヤ9:1-2参照)。
この出来事は移住への望みを挫くには十分なインパクトのある経験だったはずですが、ゼニフは諦めないことを選びました。
第一次移住団の分断とそれにより失われた多くの命は、「冷酷で、血を流すことを好む男であった」リーダーの選択によりやむを得ず引き起こされた結果でした。
他の人の選択の影響により一度は挫折しましたが、それでも諦めなかったのはゼニフの選びでした。この選択が良い選択であったかどうかは言及しませんが、ゼニフ自身と孫のリムハイは、これは「(ゼニフ自身の)望みが強すぎた」ためであったと記しています。またゼニフのその望みは時に彼の正しく物事を判断したり識別したりする力を弱めていたことを示唆しています。
彼らの移住はめでたしめでたしでは終わりませんでした。旅の途中でも、ニーファイ・リーハイの地を受け継いでからも様々な困難を経験しましたが、その経験から自分の望みや力ではなく、主に頼ることの大切さを学んでいきます。
ノアが環境やほかの人の選択から受けた影響と彼の選び
この後ゼニフから息子ノアの時代となりましたが、彼は父とは反対方向に針を振りました。親の影響というものは非常に大きな力を持っていると思われますが、ノアは親の教えも、ゼニフによって民の間に確立されていた「主に頼る」という価値観の影響も振り払って、自らの道を進んでいきます。
ノア王の悪政についてはモーサヤ11:3-19にさらに詳しく記されています。
ノア王が他の人から受けた影響については、一つの興味深い例が記されています。
ノア王と彼を取り巻く祭司たち、指導者の影響を受けて悪習に陥った民全体は道徳的な観点から、崖っぷちの状態にまで陥っていました。主は、彼らに悔い改めて生き方を変え、再び主の恵みを受けられる状態に向かって引き返すことができるように、アビナダイという預言者を遣わされました。
アビナダイは非常に勇敢に大胆に主の御言葉を伝える人でした。捕らえられて王と祭司たちの前に連れ出されたときにも、その態度を変えることはなく、むしろますます神の力を受けて力強く語りました。この神の力を伴ったアビナダイの言葉に影響を受けた人はこの場に2人いました。
一人はノア王、そしてノア王の祭司の一人であったアルマです。同じように神の御言葉の力と真実性を感じたにも関わらず、彼らが実際に選択したことは対照的でした。アルマはアビナダイを擁護し、彼を解放するように王に嘆願しますが、そのために王の不興を買い自らの立場と命を脅かされることになりました。しかし、このような選択の結果にも関わらず、アルマの心は変わりませんでした。彼はアビナダイの言葉を自分に当てはめて悔い改める道を選びます。
反対にノア王の反応は次のようなものでした。
ノア王は一度は預言者を釈放しようとしました。少なくともこの瞬間、自分に対する神の裁きが現実のものであると心に感じていました。しかし、ノアの悪の取り巻きであった祭司たちに煽られて、結局は怒りに任せてアビナダイを死刑に処します。
わたしたちは一般的に、より多くの時間を一緒に過ごす人や物事からより強い影響を受けるものです。善良な価値観を持った人や前向きな希望に目を向けている人と一緒に過ごすならその影響を受け、自分自身や他の人に対して破壊的な言動を選ぶ傾向のある人や一時的な満足感や快楽を与えるものを好む人々やメディアや娯楽とより多くの時間を過ごすならその影響を受けやすい立場に自分自身を置くことになります。
結局ノアが下した決断は、預言されていた通り、彼と民をより厳しい苦境に陥らせることになりました。ノア王は民の手で殺され、民はレーマン人の奴隷となりました。
リムハイが環境やほかの人の選択から受けた影響と彼の選び
ノアの死後、リムハイが民の声によって民を導く王として選ばれました。リムハイはこの3世代の間で最も難しい苦難に満ちた時代に王となった人でした。そして、その苦難の種をまいたのは実際には彼の前の世代の人々だったのです。
他の人の選択の結果、自分に不幸なことが降りかかるようなことはわたしたちの生活にもあります。しかもその影響から抜け出すことは容易ではありません。そこから逃れることはほとんど不可能であるかのように思えることもあるかもしれません。
リムハイはほかの人のつけを支払わされているような状況の中にあって、しかし民ができる限り穏やかに安全に平和に過ごせるように、あえて苦難を甘んじて受けることを選びました。レーマン人と戦い自由を勝ち取るという選択もありましたが、現実的にはそれは失敗に終わるだろうことが目に見えていました。
しかし、彼らの苦難があまりにも大きかったために、民はその状況に我慢できずレーマン人と戦うことをリムハイに迫るようになります。リムハイは優しい王だったのでしょう。このような民の声を御することができず、結局民がレーマン人に反抗することを許し、その試みは3度も繰り返されて、ことごとく大失敗に終わります。それらの戦いで多くの男性が命を落とし、民の悲しみは深く、ますます難しい状況に自らを置くことになりました(モサーヤ21章参照)。
モルモン書の登場人物で、リムハイほど他の人の選択に翻弄された人も多くはないかもしれません。しかし、それはほかの人の影響を甘んじて受けてきたことの表れでもあったかもしれません。レーマン人からの苦役を受け入れ奴隷となり、民の不平を受け入れて戦いに負けました。
これら他の人の選択の影響を受けて下した消極的な自分の選択の結果を何度も経験し、リムハイもその民も大切な悟りに導かれます。それはモルモン書の中で何度も繰り返される大切のメインテーマの一つです。すなわち「肉の腕ではなく主に頼るならば、主は苦難の中にあってわたしたちを救い出し高く上げてくださる。」という真理です。
すぐにはこの祈りは聞き届けられませんでしたが、彼は苦難の中にあって希望を失わず、忠実であることを選びました。そして、ゼラヘムラの地からの探索隊がリムハイの民を見つけ、奴隷の状態から逃れることができ、ニーファイ人と合流しバプテスマを受け、真に新しい生活を始めることができました。
ゼラヘムラの地からやって来た探索隊を迎え、リムハイ王が民に語った言葉は、かつて他の人の主張に任せて、流されるままに選択していたリムハイとは全く異なる、自らの意志と決意を主に向けている力強い言葉でした。
このようにゼニフ、ノア、リムハイの三世代にわたる物語を「誰かの選択」「環境」の影響と「自分の意志」「自分の選択」が織りなす物語として改めて読むときに、これが時代を超えて普遍的な真理を教えているために、彼らの人生の物語ではなく、わたしの物語でありすべての人の人生の物語であると感じられました。
わたしたちは誰もが誰かの選択の結果起こっている事象やその結果現れている環境の影響下に生きています。また決してそれを意図していなかったとしても、わたしの選択も他の誰かの人生に影響を与える結果を生み出しています。それは良し悪しではなく、逃れられない事実です。しかし、その中にあってもなお、自分が何を信じ、何を思い、何を語り、何を行い、どのように生きるかについて自分で選ぶことができます。
そのようなシンプルな真理に立ち止まって、改めて考えるときに、次のような質問がわたしの思いに浮かんできました
「選択の自由」すなわち、わたしたちの人生における「主体性」という特権は、何を意図して神様から与えられているのだろう?
わたしは、どのように他の人の「選択の自由」を尊ぶことができるだろう?特に、(実際には決してそうではないが自分に「属する人たち」と思ってしまいがちな)子供たちや部下などをコントロールせずに、彼らの「選択の自由」を尊重することができるだろう?
わたしは他の人が、彼らのもつ「選択の自由」の力を最大限に発揮できるようにどのように助けることができるだろう?
わたしはどのようにわたしの「選択の自由」を行使して、他の人の人生にもっと前向きな影響を及ぼすことができるだろう?
今日はここまでにします。次回の「質問に答える」の記事では、この学習の中で「選択の自由」というトピックに焦点を当てて更に展開され、モルモン書の今週の読書範囲にとどまらず、聖文のあちこちに散らばっている学びのピースを集めるように進められた学びのプロセスを紹介できればと思います。そして、あらかじめお伝えしておきますが、どのようにその学びがイエス・キリストに集約されていったのかを分かち合いたいと思います。
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