ニーファイ第二書1-2章:人の選択の自由という賜物を死守する〔質問に答える〕②
この一連の記事は、ヘンリー・B・アイリング管長の次の言葉を基本のコンセプトとして「質問を尋ねる」「質問に答える」の二つのパートから構成しています。
記事のコンセプトについて詳しくは以下の記事をお読みください。
今週はモルモン書ニーファイ第二書1-2章の学習のプロセスを紹介しています。「質問を尋ねる」の記事、「質問に答える」の前半記事をまだお読みになっていない方はこちらから。
「選択の自由」を与える?取り上げる?
前世での出来事
ここまで「選択の自由」というテーマについて質問を尋ね、調べて答えを探し、深く考え、理解を整理してきました。その中で、わたしの興味を引いた聖文の場面がありました。それはモーセ書4:1-4です。(モーセ書について詳しくはこちらから)
これらの聖句を読むと、わたしたちが神様の子供たちとして成長し喜びを得るための計画について、わたしたちが生まれてくる前の世界において意見の対立があったことがわかります。争点は「選択の自由」を人に与えるか否かというところにあったようです。
天のお父様とイエス様は選択の自由という賜物を守る立場をとられ、サタンは反対に選択の自由を奪い(つまり神様の子供たちが自分で考え、感じ、行うことを選ぶことを制限することで)誰一人罪を犯すことなく清い状態にとどめ、再び天の家に戻らせるようにしましょうと主張しました。
「選択の自由」の有無が計画に与える影響
選択の自由という賜物があることとないこととでどれだけの違いが生じるのか改めて考えてみました。
選択の自由があるということはまず①反対の物事がある、ということです。
反対のものがありその間で選ぶことが一人一人に任されているとしたら、それはわたしたちの人生に②葛藤や悩みが生じるということでもあります。
そして葛藤や悩みが生じるということは同時に③間違いや罪を犯す可能性が大いにあるということでもあります。
神様の子供たちが天の家に戻れる可能性はどうでしょうか?天の家に戻るための条件が④「清さ」(罪による染みのない状態)を指しているとすれば…
しかし、神様の子供たちのための計画の目的はそもそも、その子供たちを「全く清らかで無垢な赤ちゃん」のまま家に戻すことではなく、学び成長し、いつか神様のようになり、神様がお持ちであるすべてを受け継ぐ存在になれるように助けることです。選択の自由がなければ、この⑤学びや成長は非常に限定的なものになってしまうでしょう。
それでは、清さのみで学びや成長がないところに⑥喜びはあるでしょうか?神様と同じ喜びに満ちあふれた状態があり得るでしょうか。
読者の皆さんは「選択の自由」を与えること、取り上げること、それぞれの影響についてどのように感じましたか?
「選択の自由」の有無が救い主に与える影響
このように考えてみるとわたしの思いと心は次の質問に導かれていきました。
「選択の自由」が保証された神様の計画と、「選択の自由」を損なおうとしたサタンの計画、それぞれの計画において「救い主」の役割は何か違いが生じるだろうか?
モーセ書4章1-4節やアブラハム書3章27-28節では神様の子供たちを導き、わたしたちの救いのために必要なことをすべて行う役割を担う「救い主」として誰が行くのか、という場面が記されています。その時手を挙げたのはイエス様とサタンでした。
「選択の自由」の有無によって神様の子供たちが経験すること、到達できる地点、何もかもが影響を受け異なったものになることは明らかでした。当然、天のお父様がもともと意図された「救い主」の役割と、サタンの計画における「救い主」の役割にも違いが生じるはずです。
わたしたちが良い経験からだけでなく、わたしたち自身やほかの人の誤った選びの影響を受けてする悲しみや後悔、苦痛や喪失、不公平や困惑などの経験から学ぶことが意図されているとすれば、「選択の自由」という賜物を与えることは少なくとも、「救い主」にそれらの失敗や葛藤、苦難、損失を埋め合わ、不完全さを補い弱さを強くする務めが負わされることになります。
そのためにイエス・キリストはゲッセマネの園、ゴルゴダの十字架上で文字通り、わたしたちの人生の中で経験するすべてのネガティブなことをその身に負ってくださったのです。
イエス様は「救い主」になるということがどのようなことなのかを理解された上で、文字通り自分の命を懸けて「選択の自由」という賜物をわたしたちのために守り通してくださいました。
しかし、サタンの計画の場合はどうでしょう?もちろんそれが実行されることは決してありませんでしたが、もしサタンの計画が実行されて人の選択の自由が奪われていたとしたら、その計画におけるサタンの役割はいったいどのようなものだったのでしょう。
「選択の自由」のない世界においては、答えは常に目の前にあります。最善の道は示されています。その道を進むにしても道からそれるにしてもそれを選ぶことはわたしたちには許されていませんので、わたしたちの意思はそこにはありません。常に示されている最善の道をまっすぐに進むことはすでに決まっていることです。
そのような中にあって、サタンが担う「救い主」という役割は、それは何らかの方法ですべての神様の子供たちを強制することでしょう。
愛が可能にする天のお父様とイエス様の覚悟
子供たちに最善の喜びを与えるための計画は、天のお父様にとっても大きな決意を求めるものだったはずです。
選択するプロセスの中で、子供たちが間違い、困惑し、道を逸れるときでさえ見守り、彼らの選択の自由を決して侵害しないという決意は、決して並大抵のものではないでしょう。(新約聖書でイエス様が語られた「放蕩息子」の譬えの父親の姿が思い浮かびます。)
すべての子供たちが失敗から学び、間違いをやり直すための道を備えるために、御子イエス・キリストが死に至るまで血を流し苦しむ姿をただ見守り続けるという決意は、いったいどれほど痛みの伴うことだっただろうと想像します。
限られた視野、限られた経験、限られた能力、限られた理解の中で最善の選びをしようと悩み葛藤している子供たち、失敗や困難に肩を落とし立ち上がる力も進むべき道も見失っている子供たち、理不尽な不公平に困惑し怒る子供たち、そのすべての子供たちのすべての祈りを聴き答えを与えるという決意は、天のお父様ご自身にとっても決して休まることのなく子供たちのために働き続けることを意味していたはずです。
天のお父様とイエス様が御二方にとって最も難しい、最も痛みを伴う、完全な愛なしには決してやり遂げることができないほど最も困難で最善の努力を必要とする道をお選びになったのは、わたしたちの誰もが決意をする前のことでした。
質問への答えを見出そうと調べ深く自分自身の思いに問うときに、天のお父様とイエス様が、誰よりも先に御自身の「選択の自由」を行使されて、わたしたちを愛し救うことをお選びになったのだと気づきました。以前から知っていた次の聖句がわたしの中でもっと意味のあるもののように感じられました。
そして再びリーハイの最後のメッセージ
今週のこれまでの学びのプロセスを経て、もう一度リーハイの言葉を読み返すとき、次の質問を心に問うように促されました。
リーハイは聞き分けの良い息子のためだけでなく、むしろ迷い反抗し明らかに矛盾している息子たちのために(彼らの選択にも関わらず)、どのように彼自身の選択の自由を行使してきただろうか?
もっと善い父親になるためにわたしは、どのように天のお父様、イエス様、リーハイの模範に学び、倣うことができるだろうか?
ここからわたしの自問や学びはまだまだ続いたことは想像していただけると思いますが、今週はここまでにしたいと思います。
皆さんは、皆さん自身が問いかけた質問についてどのような答えを見つけることができましたか?
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