『社会学評論』の「ジェンダー研究の挑戦」に掲載されました。
掲載に至る経緯
『社会学評論』288号(72‐4)の公募特集「ジェンダー研究の挑戦」において千田有紀「フェミニズム、ジェンダー論における差異の政治-平等から多様性へ」が掲載されました。ホッとしています。
この論文はジェンダー特集論文であり、2020年に7月末の締め切りの応募のなかから選抜され、その後さらなる査読を経て、2022年4月に刊行された論文です。インターネットのなかった時代から執筆をはじめ、多くの言論雑誌があった時代を経験した私は、広く読んでいただけることを目的に商業誌、またできるだけ運動にも貢献したいという気持ちから機関紙などに執筆させていただいてきました。そういう意味では、博士論文を執筆するまでに何本もの査読論文を要求されている、若い研究者の方々の苦労もしのばれました。日常の大学業務に追われているなかで、突然「1か月後に査読者の指摘にこたえて返信してください」という通知がくるというプロセスは、なかなかに大変なものがありました。
また字数の制限も厳格なもので、80枚程度(原稿用紙で400字)の論文をなんとか50枚に収めるために、最後のほうは、文献リストを記号にしてみたりありとあらゆる工夫をしてみました(スタイルガイドに沿っていないので、当然冷静になってやめました)。そうやってげっそりするまで削ったワードの字数の数え方が、提出してから「文字数(スペースを含める)」であることが判明して、それからさらなる文字削りのチャレンジが始まった時は、倒れそうでした。
しかし、日本社会学会で初のジェンダー特集の公募であるということで責任も重く、とにかく落とさずに掲載されるまで頑張ろうという気持ちで、執筆しました。最初にかなりの量の論文のアウトラインを書いた後で、さらに論文にしていくという作業は、ここ20年間以上してこなかったもので、なかなか調子がでなかったこともあります。査読論文でなければ、もっと大胆に勝手に構成を組み替えたかもしれません(しかし査読者となった経験から言えば、大幅な改稿は別な論文を投稿するにも等しいので、やはり望ましくないと思いました。選抜が2段になっているだけになおさら今回はそうです)。
論文をめぐる批判の作法のお願い
私の論文は、近代におけるフェミニズム、ジェンダー論を「差異の政治」に着目しながら概観し、そこでどのような問題設定がなされ、何が問われているのかについて読み解いていくものです。
近年、フェミニズムに向けられている「インターセクショナリティ」をめぐる議論、とくに批判は、どのようなものであるのかは、触れざるを得ませんでした。私もこうしたジェンダーを問う際に何が零れ落ち、さらに言えば、他のカテゴリーの人にどのような影響を及ぼすのか(時には、ある差別を差う際に、ほかの差別を作り出してしまうこともあるでしょう)、真摯に向き合い、ありとあらゆる差別のない社会を目指し、「他者」(より正確に言えば、複合的に表れるさまざまな(小文字の)他者たち)とどのように共存できる社会を作っていけるのかを考えることは、避けて通れないテーマだと思います。
その際に、トランスジェンダーへの排除の視点から、フェミニズム批判をされている清水晶子先生の「埋没した棘-現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」は、ほぼ唯一に近いトランスジェンダーと女性たちの問題を正面から扱っている力作であり、影響力からしても、避けて通れない論文であると思いました。その結果、ハレーションが起こるだろうということも想像していました。女性が過去に受けた性暴力のトラウマについて語るのは、被害の語りに「圧倒的な訴求力」や「強い情動的喚起力」があるからであり、女性の「傷つきやすさ」の主張は「女性」の「連帯の拠り所を見出だそうとする欲望」から生じていると主張される清水さんを、論文中では批判的に分析してはしていますが、それはこの問題を深めて、ともに乗り越える道を模索したいという切なる願いからのものでもありました。
批判個所を指摘してくださるようにお願いします
ところが批判は、まったく思ってもみなかったところから来ました。というよりも、私はそもそも、何を批判されているのかがまずわからないのです。
社会学者の森山至貴先生は、私の論文を「大きな問題」であり、「どのレベルの問題として考えるべきかまだ考えが整理できていませんが、少なくとも、学会誌に査読論文内の記述として載ってはいけない差別的な記述が載ってしまったのは、間違いない」とおっしゃっています(2022年4月12日のツイート)。4月17日の時点で、129人にリツイートされ、236人にいいねが押されているところを見ると、多くの人に見られているツイートだと思います。
「差別的な記述」は掲載されてはいけないと思いますので、ぜひ、具体的にご指摘いただけるように切に願います。私も自分の論文が傷つけるものであってはならないと思いますし、そもそも私の研究者生命にかかわるものです。もしそのような記述があるのであれば、反省して謝罪したいと思います。
以前、森山先生には、私の共著である『ジェンダー論をつかむ』についての書評セッションでていねいな批判をいただきました(児童心理学の進歩 VOL.60[2021年版])。私もリプライの多くを森山先生への返答に割かせていただきました。私は森山先生によるかなり辛口のご批判は、本での私の書き方が悪かったのかどれも誤読から生じていると思いましたが(共著の先生もいらっしゃいますし)、論点というかたちでいただいて、具体的に話し合うことができたのは(森山先生は気を悪くされていないことを切に願いますが)、フェアで、生産的な過程であったと思います。
そして、これを書くのは迷いますが、「差別」という言葉を使う際には、慎重にお願いしたいと思います。研究者が「差別をした」というのは、繰り返しますが、その人物の研究者生命にかかわることであって、気軽に使える言葉ではないと思いますし、指摘する側も大きな責任を負うことだと思います。
編集委員会や他の論者に対する誹謗中傷はやめてください
これに関しては、非常な憤りをもっています。私個人の論文が、「〇〇という理由で、レベルが低い」という指摘でしたら、甘んじて受け入れます。ぜひおやりください。ところが私が掲載されたことをもって、この特集や評論の全体に対して、根拠なく「レベルが低い」などと発信する方々がいらっしゃるのは、掲載された他の論者の方に対して極めて失礼に当たると思います。非常に心苦しい気持ちでいっぱいです。
また2段階の査読を経ているにもかかわらず、私の掲載が前もって決まっていた「招待論文」扱いのようなものだろうなどという憶測を広めるのも、やめていただきたいと思います。この特集に応募されて残念ながら採用に至らなかった方々もいらっしゃるなかで、「あいつの掲載は、元から決まっていたんだ」という(事実無根な)憶測を聞かされたときに、その方たちが、どのように感じるのかに少し思いをはせていただければ、おわかりになると思います。そして私に対する、最大限の侮辱でもあります。
いろいろとご不満に思うかたもいらっしゃるのかもしれません。しかし、具体的な根拠を示すことなく、憶測や一方的な評価だけを拡散することは、掲載された方や編集委員会の方に対する侮辱であるとしか思えません。
ほぼ2年かけて仕上げた論文に関して、「適当に書いたんだろう」などと言われるのは、その過程にたずさわってきた方すべてへの侮辱でもあります。もしも論文が、誤字だらけで日本語もめちゃくちゃであるというのでしたら、具体的に指摘していただけると幸いです。最後に書き足した校正で生じた誤字は認識していますが、査読の先生方、編集委員会、出版社の編集者などの多くの方に見ていただいたものです。
最後に
この部分は炎上するかもしれませんが、50歳を過ぎた研究者の戯言として聞いていください。駆け出しのころに、本当に学問的な評価はフェアになされているのかと、思わずつぶやいたことがあります。それを聞いた指導教員に、烈火のごとく怒られました。あんなに怒られたことは、後にも先にも1度きりです。「研究者たるもの、そんなことは2度と口にしてはならない。もしも本当にそう思うなら、学問をやめなさい。いますぐ」。さまざまな不満を持つ若い駆け出しの私には、なぜそこまで先生が怒るのかまったくわかりませんでしたが、いまならその意味がよくわかります。
私は真にさまざまな問題がオープンに話し合われ、架橋され、問題解決に向かうように願っていますが、私の態度というか、私の存在を面白くないと思っている方がいらっしゃるのは存じています。「みんな、あなたの論文を読むと気分が悪くなるといっている。トランス問題だけではなく、そのほかのことについても、もう論文は書かないで欲しいといっている」と面と向かって、研究者から告げられたこともあります(みんな、が誰を指すかはさておき)。
ただ私自身に対する反感が、学問というシステムを壊していっているように見えることには、非常に危惧を覚えます。学問共同体のなかでの言説活動は、一定のルールがあり、作法があると思います。そのルールのなかで、闊達な意見を交換したいと思いますし、批判もぜひお寄せいただきたいです。
おまけ
また、私が「誰でも(トランスジェンダーも)自由にアイデンティティを組み替えられると主張している(したがってトランスジェンダーの苦悩を否定している)」という誤解が広まっていますが、最初にそれを提唱されたと思われるブロガーですら、下記の指摘を受けて、「確かに「構築」の意味を私は誤解していたのかもしれないと思い直しました」と認められている(千田氏の応答に対して)。私の書き方が悪かったのかもしれないが、思いもがけない論文の解釈であり、私は少なくともそのような意見を持ってはいないことをここで確認しておきたいと思います。
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