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千田有紀「学問の危機と『キャンセル』の方法論」『情況』の注と補足

このページは『情況』の千田有紀「学問の危機と『キャンセル』の方法論」の注である。論文の紙面に注はいちおう印刷されているが、URLが多く、利便性を考えて公開する次第である。また、紙幅の都合上省いた情報も補足してある。

注1 千田有紀、2020、「「女」の境界線を引きなおす」、『現代思想』3月臨時増刊号。論文はここで全文が公開されている。


注2

注3

注4 高島鈴、2021、「都市の骨を拾え」、『現代思想』11月号、青土社。TERFとは通常、「ジェンダー・クリティカル・フェミニスト」ではなく、Exclusionary Radical Feminist(トランス排除的ラディカルフェミニスト)の頭文字をとったものと考えられている。

注5 高島鈴、2020、「オメガバースを読む――乱反射する欲望と現実」、『ユリイカ』9月号でも、末尾に同様に抗議文だけが掲載さ入れている。

一連のツイートについてのまとめと考察。


注6 千田有紀、2024「書店には放火予告まであった…一度は発売中止になった"トランスジェンダー本"がアマゾン1位のワケ」(プレジデント・オンライン)で書店の帯の写真などを見ることができる。

写真はまるめさんからいただきました。

この問題について触れた記事は以下のようなものである。

流出したWPATHファイル、キャス博士の報告書は、ジェンダー医療研究会によって翻訳されているため、日本語で読める。

出版関係者有志一同による「トランスジェンダー差別助長につながる書籍刊行に関しての意見書」は、URLが見つからないため、スクショで置いておく。

出版関係者有志一同による「トランスジェンダー差別助長につながる書籍刊行に関しての意見書」


注7 【和訳】J.K.ローリングの声明文(6月10日付)※追記あり はてなblog『54023通りの空論』でながよさんが声明文を訳してくださっている。


注8 板垣麻衣子2021年12月11日 15時00分(2021年12月20日 15時30分更新)「生理がないのに女?ジョークが炎上 居直った私の好きなコメディアン」記事の文末には、以下の文言がある。

〈訂正しておわびします〉
 「『ハリー・ポッター』シリーズで知られる作家のJ・K・ローリングが数年前、『女性』をわざわざ『生理がある人』とツイートして炎上したこともある」とあった部分は、「『ハリー・ポッター』シリーズで知られる作家のJ・K・ローリングが昨年、『生理がある人』を『女性』と明言しなかった記事を揶揄するツイートで炎上したこともある」に訂正しました。 
また、ツイートは2020年6月でしたので、「数年前」は「昨年」と改めました。

板垣麻衣子2021年12月11日 15時00分(2021年12月20日 15時30分更新)「生理がないのに女?ジョークが炎上 居直った私の好きなコメディアン」


注9 論文を発表したあとに批判され、フォロワーが1万人ほどいたがアカウントは削除したため、スクショ以外でこのポストは見られない。

発端となった「差別」ツイート 
下段はトランス自認アカウントに「マンコ臭そう」と言われたことを指す。

注10 おおもとのツイートは削除されたの見つからないが、たくさんのスクショを見ることができる。Twitterでなされてきたトランスジェンダーに関する多くの発言(特に当事者やアライのもの)は、トランスジェンダリズムwiki発言録などを参照のこと。上瀧浩子弁護士の「女根」発言。

注11 清水晶子さんの「ただの小さな肉塊」発言。女性たちの恐怖は否定しないが、それは実は「ペニスフォビア」ではなく、「トランスフォビア」であり、それを口実とすることは「トランスフォビックな暴力」であるという。

ペニスは大きなクリトリス発言(トランスジェンダリズムwikiより)

トランスジェンダリズムwikiより

ガールディック発言はおおもとのものは、おそらく鍵アカウントになってしまっていて見つけられなかったため、それに言及しているツイートを掲載する。


注12 私の現代思想論文を読んで、泣いてしまったという堀あきこさんのツイート。当初はこういったエモーショナルな反応が多かった。

注13 おそらく私の論文に対しての清水晶子さんの当初の反応。

千田有紀、「清水晶子さんは、「キャンセル」していない(私の妄想だそうです)。」を参照すると、時系列的に事実が掲載されている。

注14 「千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで」『ゆなの視点』blog 

「セルフID」という言葉は、トランス当人にとってもまるで自由でないアイデンティティを、さも自由に自称しているかのように語る、トランス排除的な言説でたびたび目にする言葉であると、私としては理解しています。ここで「セルフ・アイデンティティ」は同様に用いられているように見えます。ここまではぎりぎりトランスフォビアの擁護にとどまり、積極的にフォビア的に加担していたわけではないと言えたかもしれませんが、自らこの言葉を使い出したあたりで(厳密にはトランスに不当なジェンダー観を押し付けたところからすでに、だと思いますが)、私は千田氏自身も積極的な加担の側に足を踏み出しているように思います。

千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで

セルフIDを使いだしたあたりで、積極的にトランスフォビアに足を踏み出したといわれている。ゆなさんの読解への反論として、千田有紀「「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について

以下は、私の論文を含む『現代思想』フェミニズムの現在特集号へのAmazonレビュー。「自分の文章に対する反応としてAmazonのレビューを引っ張ってくるなんて、学者のやることかよ」などというひとがいるのは充分に予想がつくが、実際のところ、Amazonのレビューくらいしか引っ張ってくる文章がない。それくらい多くの学者は沈黙を守っているからである。ちなみにレビューのなかには、職場や学会、あちらこちらに連絡をして私を学界から追い出せという要望をはじめとして、数多くの私に対する暴力的な言辞が4年間近く掲載されていたが、この原稿を書くにあたって見に行ったところ、削除されていた。同時に私に対する賛同の声ももっとあったが、それも削除されていた。2024年7月23日現在評価数が45と書いてあるが、掲載されているレビューは比較すると少ない。多くが削除されたと考えられる。


最近のフェミニズムの流れを自分の中で整理したいなと思い、アマゾンでよさそうな本を探していました。
タイトルも『現代思想』の増刊であるのもいいなと思ったのだけど、なんかレビューでクソミソに言われていて、青土社どうしちゃったのかな?と思いつつ、とりあえず大学で借りてきました。
まだ全部の論文を読んでいないけど、フェミニズムの歴史的流れ、現在の広がりと課題などが、様々な角度から語られていて、とてもいい内容で質も高い。さすが『現代思想』という感じ。千田さんの論考も、表面的に表れている争いの下で見えなくなっている現実的な問題を誠実な姿勢で見つめている、とても深い内容だと思います。この論文を批判している人たちは、そもそもきちんと読めていないのでは?(普段からこのような論文に触れている人はもちろん誤読しないと思うけれど、『現代思想』ってそもそも読解力を要する雑誌ですよね。)もしくは、ただ単に気に入らないものは潰したいという暴力的な動機で叩いているようにしか思えません。

『現代思想』 2020年3月臨時増刊号 総特集◎フェミニズムの現在へのAmazonレビュー

まぁ「現代思想」がそれなりに読者を選ぶ雑誌だというのは現実なので、きちんと中身を理解できない人たちが暴力的な動機で叩いているというのは正直なところでしょう。
たぶん「批判するために初めて現代思想を買った」という人もいるのでしょう。青土社は万歳ですね。
個人的には、「機会があれば中身を読んで、その是非と真贋を判断してみる」のも、コロナ禍の時間潰しの良い体験になるような気もしています。家にいる時間も多いですし。
Kindleでダウンロードもできますし。

「自分の気に入らない文章を書いたやつは、社会的にも抹殺してやる」という固い意志を感じるレビュアーもいらっしゃいますね。
これもまた、現代の新しい娯楽なんでしょうか。寒い時代ですね。リアル世界の外は熱中症に注意するほどの暑さですが。

『現代思想』 2020年3月臨時増刊号 総特集◎フェミニズムの現在へのAmazonレビュー

ネットでは、千田のターフ批判が炎上しています。千田はMTFを阻害する女性そのものを批判していると読めるので、あまり批判はあたらない気がしますが。でも、短い文章だから誤解されやすいのかな、とも思います。

『現代思想』 2020年3月臨時増刊号 総特集◎フェミニズムの現在へのAmazonレビュー

以下は唯一残されていた批判的な(そして批判のなかでもまだ穏当な部類の)レビューである。「当事者のブログ」への言及があるのがわかる。また「編集部・編集者」への批判、「自らの差別心に負けてしまった」という心理への還元、(女性としての?)マジョリティ性の批判、さらに(学者としての)優位性の指摘など、トランス問題について語ったひとに対する批判のいわば「テンプレ」が盛り込まれている。
しかし、「学者として文章を用いる業であるならば、多くの人間に何度も「誤読」される自らに問題と責を見出すべき」といわれる一方で、「自らの優位性を用いて自らの言説で被害を受ける被差別当事者の「誤読」であり虚偽に過ぎないと触れ回る事が、果たして相手と対等に誠実に接する態度と言えるのでしょうか」といわれてしまえば、「誤読」を広められれば何も打つ手がないことになる。

詳細精緻な論考・批判は当事者の方もブログなどでされていますが、こんなもの(千田論文)がフェミニズムの一環として活字になり世に出てしまった事に驚きを禁じえません。そしてそれを通してしまった編集部・編集者は一体何を考えているのかと頭を抱えました。ヘイトや差別に論理的支柱を与える行為は、出版倫理にも社会正義にも悖る行いだと思います。
フェミニズムの真髄とは、最初から差別的なこの社会に産まれ生きる中、自らに植え込まれてしまった差別と向き合い、それを乗り越えるという点にこそあるはずです。だからこそフェミニズムは男性をも解放するもの、つまり性差別を解体するものになり得るのだし、むしろそうでなければ性差別を認識し、性差別を社会から無くすなんて原理的に矛盾してしまって不可能だからです。
にもかかわらず千田氏は全く逆のことを行い、それをフェミニズムとして述べてしまっています。自らの差別心に負けてしまった人こそ、フェミニズムの論考にも実践にも最も遠いものでしょう。男性がフェミニズムをかじると対等には決して接しないというマジョリティ性だけは死守しながら女性に対してうわべだけは取り繕おうとして、結果的に優しい家父長に歪むのが典型的ですが、千田氏のやっている事は本質的にはそれと同じです。
むしろ、上っ面の優しさすら取り繕っていないという点で、より冷酷で惨いとさえ言えると思います。
他の方も書かれていますが、この「論文」だけでなくそれについての批判・論考への対応などを見ていても、千田氏が自らの差別心に向き合えず負けてしまっている事がよくわかります。学者として文章を用いる業であるならば、多くの人間に何度も「誤読」される自らに問題と責を見出すべきではないでしょうか。それを自らの優位性を用いて自らの言説で被害を受ける被差別当事者の「誤読」であり虚偽に過ぎないと触れ回る事が、果たして相手と対等に誠実に接する態度と言えるのでしょうか。男性が女性から差別を批判された際によくやる手法とほとんど同じに感じられませんか。

『現代思想』 2020年3月臨時増刊号 総特集◎フェミニズムの現在へのAmazonレビュー

注15 こういったツイートをはじめとして、ゆなさんのブログへの賛同が多く与えられた。引用先のURLはゆなさんのブログである。

注16 夜のそら、「未来人と産業廃棄物――千田先生の「ターフ」論文を読んで」(Aセク情報室)

千田先生が『セルフ・アイデンティティ』ということばを自由自在に使うとき、シスジェンダーになれなかった産業廃棄物のわたしは、心の底から怒りを覚えます。

未来人と産業廃棄物――千田先生の「ターフ」論文を読んで

ここでも私がセルフIDという言葉を使ったことに対して「心の底から怒り」が覚えられ、批判されている。

注17 「フェミニズム/クィア理論を専門とする研究者として」、双方を読んだうえで「ゆなさんが示された懸念と批判とに同意」する清水晶子さん。このツイートによって、ゆなさんが正しいという方向が決定づけられ、批判が激化した。

注 18 少年ブレンダ「誰が「女」の境界線を引きなおすのか~現代思想、千田有紀さんの記事」(アーカイブ)

ターフ戦争という言葉を私の造語だと主張する少年ブレンダさん。TERF Warという言葉の翻訳語であり、別に差別でも何でもないが、なぜきちんと指摘するひとがいないのか。

日本では災害時、朝鮮人に対するデマが流れますが、過去、多数の犠牲者を出した事件もありました。殺された人の中には中国人や日本人もいたと言われています。
「ターフ戦争」と聞くと何かラノベっぽい軽さがあり、人によっては違和感を感じる程度で済むかもしれません。
しかし、トランス女性にとって、これは震災の「爆裂弾」や「井戸に毒」のようなものです。
千田さんは、おそらくこの愚かしい「造語」を作った人としてフェミニズム史に名を残すことになるのではないでしょうか。

誰が「女」の境界線を引きなおすのか~現代思想、千田有紀さんの記事(少年ブレンダ)

注19 

TERFsのいう「セルフID」は、トランス女性を攻撃するために考案された意図的な誤謬だということは、「調べれば判る」はずです。「論文」なのになぜ千田さんは調べないのでしょうか

誰が「女」の境界線を引きなおすのか~現代思想、千田有紀さんの記事(少年ブレンダ)

少年ブレンダさんもセルフIDは「トランス女性を攻撃するために考案された意図的な誤謬だ」といい、私の論文を批判する根拠はセルフIDを擁護したことにある。
なお「論文」とわざわざ鍵カッコがついているのは、私の論文は論文とも呼べない代物なのに自分で論文と呼んでいるのもおこがましい、「論考」で十分だという説がインターネット上に盛んに広まったためである。Amazonのレビューにもわざわざ「論文」と括弧がつけられ、清水晶子さんのツイートでも、また後述の小宮友根さんのブログ、藤高和輝さんの論文でさえも一貫して「論考」と書いているのは、その流儀にしたがっているのだろう。学者からすればそんな使い分けは存在していないにもかかわらず、私を叩くためになら乗っかる時点で、端的に言えばダサいと思っている。

注20 清水さんが、「私の論文が読めていない」というDMを夜のそらさんが受け取ったことについて、私を心配してくださっているツイートなど。なぜかそのDMの本文は、公開されていないので、何が書かれているのか全く不明のままである。清水さんはそれを「脅迫」と受け取ったという。詳細はここで書くことはできないが漏れ聞く事情によって、おそらく本気で脅迫だとは思っていなかっただろうと確信している。

↑(@chitapontaというのは削除した私のアカウントである。わざわざメンションしてある)。

↑(私に対応しろというだけではなく、「伝えられる立場にある方」のどなたか、つまり周囲が伝えろと、周囲を巻き込むツイート)。

↑(本筋とは関係ないが、「論考」を褒めた研究者の名前は~は、私に同意すると今後、仕事を回さないといっているようにも読める)。

↑(「Twitter上で中傷を受けたと感じる」というのは、おそらく以前、清水さんが私のツイートを誤読し、一方的に批判してこられ、最終的に謝罪された件を指すようだ。謝罪のツイートが下記である。よほど腹に据えかねたようで、あたかも嫌がらせを私がしたかのように、その後も何度も言及されている。「真意」は「日本のフェミニズムが十分クィアに向かわなかった」と書いてあるが、私の元のツイートに、そのようにはっきりと書いてあり、勝手に清水さんが誤読しただけだ。私のツイートが批判を受けてから数日であるところを見ると、私を批判しようと待ち構えていたため、勇み足で誤読してしまったのだろう)。

↑(「論文を読めていない」というDMを受け取ったからといって、なぜ「千田さんと親しいジェンダー研究業界の方たち」が介入する必要があるのか不明である)。

↑(私の周囲と「研究業界」が対応しろというが、なにをしろというのかまったくもって意味不明である)。

↑(しつこく言及されるのに耐えかねて、「私自身がDMを出したものではないし、私がコメントを出すべきだとは考えていなかった」というようなこと(すでにアカウントがないため記憶によれば)を返答したあとの清水さんのツイート)。

清水さんはほかのひとたちとこの件について語ったりしており、もっとツイートはたくさんあったのだが、一度手違いですべてが消えてしまったため、必要最低限のものだけ列挙した。

また原稿を提出してから下記のようなまとめを発見した。鍵をかけたアカウント(実名)から「お前には千田先生の論文の価値は分からない」「千田先生の悪質な印象操作をやめろ、お前は告訴される」っていうDMがきたそうだ。「外国のLGBTについての研究で本も書いてる人だった。本当に意味が分からない。LGBTの研究する人はLGBTなんてどうでもいいの?」「ただの脅迫にしか感じられませんでした」というのが夜のそらさんの言い分である。


以下は『現代思想』で、私以外の論文を薦めることで間接的に私の論文を貶める清水さんのツイートなど。1番上のツイートの引用元の北村紗衣さんが「研究者としてはあり得ないくらい調査不足」と批判されているが、理論的考察の論文に対して何が「調査不足」なのかまったく理解できない。「社会学=調査」という前提をお持ちなのかとも思うが、少なくとも「研究者としてはあり得ない」とまで書かれるのであったら、少なくとも「言いたいことがあまりよくわからない」だけではなく、事実を指摘すべきだろう。

↑(直近の上記ツイートは、スレッドになっている)。もともともっと掲載していたが、消えてしまったため最低限のものにとどめた。

注21 日文研が呉座勇一さんの昇任を拒んだあと、呉座氏のセクハラ批判と、日文研の対応の批判は別だと主張する呼びかけ人のツイート。なお、オープンレターの執筆者は小宮友根さんのようである。

注22 清水晶子さんを中心として出された「本学三浦俊彦教授によるトランスジェンダーに関するオンライン記事についての東京大学関係教員有志声明」 とそれに対する三浦俊彦さんの記事「三浦俊彦教授によるトランスジェンダーに関するオンライン記事について「東京大学関係教員有志声明」への応答


以上のように、「cotton ceilingに性的な意味を持ち込んだのはTERFであって、トランス女性は社会的地位向上を意図しただけ」――という有志声明の理解は、歴史的事実に反しています。cotton ceilingの原義について三浦が「事実誤認」しているという有志声明の記述を、訂正していただくことを望みます。さもなくば、2012年1月以前の、性的意味でないcotton ceilingの用例をお示しいただけると幸いです。

三浦俊彦教授によるトランスジェンダーに関するオンライン記事について「東京大学関係教員有志声明」への応答

こうした三浦俊彦さんからの反論に、声明を出した側からの反論はないようだ。これらの文脈を考えれば、おそらく私にももし論文に瑕疵があれば、オープンレターを出したかったのだろうと推察される。

サンフランシスコの公立図書館での、「TERFを殴れ」という血塗られたシャツや、鉄条網のついたバットや斧などの「アート」展示。

ヴァンクーバーでは、生得的女性のみしか受け入れなかったシェルターに、ネズミの死骸や落書き(TERFを殺してやる。くたばれTERFなど)がなされた。このシェルターは予算をカットされた。

こうした暴力の指摘をしたことはほとんど言及されなかった。わずかに畑野とまとさんが「アート」として擁護している。

注23 尾崎日菜子、2020、「埋没したものを掘り起こす―千田有紀さんとの濃厚接触の果ての断片、または、これからも接触を続けるための手紙」、『f visions』1号。たった4ページの短い文章に、30回近いペニスという単語が繰り返し繰り返し書かれている。尾崎日菜子さんと「接触」したこともなければ、これからするつもりもない。

(あなたは「彼女たち」が風呂やトイレでトランス女性のペニスを目撃したときに感じる不安をテキストを用いて発掘します。という話の流れで)
ところであなた自身がトランス女性のペニスについてどうお感じなのかを問うのはとりあえず控えておくとして、あなたのテキストにおいてトランス女性のペニスと出会わせ、不安を抱かせた主体、つまり、あなたがテキストを通じて生成した主体の内実とはいったい何なのでしょうか?トランス女性のペニスを見つめている人物とは、結局のところ誰なのでしょうか?…ペニスを見つめ、ペニスを不安がる「彼女たち」とは、いったい誰のことなのでしょうか?…あなたは巧妙に忘れているように思えます。「彼女たち」のペニスを見たときの実感に、ペニスを見つめられている当のトランスジェンダーのリアリティを書き加えるのを。

尾崎日菜子「埋没したものを掘り起こす―千田有紀さんとの濃厚接触の果ての断片、または、これからも接触を続けるための手紙」

注24 藤高和輝、2021、「ポストフェミニズムとしてのトランス? ―千田有紀「『女』の境界線を引きなおす」、お茶の水女子大学ジェンダー研究所『ジェンダー研究』24号。

例えば、トランスジェン ダー当事者であるゆなは千田の論考をかな り詳細に取り上げて批判した(ゆな 2020)。 これに対して、千田はゆなに応答し、彼女 の解釈は「誤読」であるとして、むしろ 「「女」というカテゴリーを生物学的な本質主義から解放し、「共闘」しようという、トランス女性へのメッセージでもある」と述 べた(千田 2020b)。 しかし、そうであるならば、なぜ、トラ ンスジェンダー当事者を含めた多くの人たちから「トランス排除的」との批判を受け たのか。その論考の何が問題だったのか。 私たちは改めて考える必要があるだろう。 そして、そこで考察されるべきは、千田自身の「意図」ではなく、そのテクストがど のような認識の枠組みによって可能になっ ているかという問いであり、その認識論的な構造を明らかにするために、テクストが 語っているもの―「作者」にとっては「枝葉末節」に映るものさえ含めて―を批判的に読み解く必要がある。

藤高和輝「ポストフェミニズムとしてのトランス? ―千田有紀「『女』の境界線を引きなおす」

問われるべきは論文の「意図」でも私の「認識枠組み」でもなく、その論文に何が書いてあるのかをきちんと追うことなのではないか?

本稿は千田の論考「「女」 の境界線を引きなおす」を批判的に読解するものである。しかし、その狙いは千田個人を批判することにあるわけではない。ま た、千田の論考を「正確に」読み、その 「意図」を理解することにあるわけでもな い。ましてや、「中立的立場」から「論争」 を整理することにあるわけでもない。

藤高和輝「ポストフェミニズムとしてのトランス? ―千田有紀「『女』の境界線を引きなおす」

研究者であるからには、最低限、論文を「正確に」読むべきではないのか。

注25 「千田氏の応答に対して」(『ゆなの視点』blog)
藤高和輝さんが依拠しているゆなさんですら、他のひとからの指摘を受けて、「確かに「構築」の意味を私は誤解していたのかもしれないと思い直しました」といっているのに、なぜ「誤読」を無批判に引用し続けるのか。研究者としての姿勢が問われる。

下記のブログを拝見しました。
無題 - Dog ears(リンク先に記事は見つからず)
確かに「構築」の意味を私は誤解していたのかもしれないと思い直しました。とはいえ、問題は変わらなく思います。
***
 これ、多分「構築性」という部分の解釈で食い違ってるよね。千田氏の方は「"社会的に許される範囲"が言葉や体に縛られる事なく自由になり、これまでの"生まれながらに割り当てられていたあるべき形(フィクション)"に束縛される必要がなくなった」という「社会的な束縛からの自由」を主旨としているのに対し、ゆな氏の方は「個人の絶対的な自由」として読解している。
おそらく「再構築」という表現をそのまま本人が主体的に取る行動だと認識したのだと思われるが、その前の段落で「身体までも社会的に構築される」と述べている様に、この場合は社会規範がジェンダーやアイデンティティに及ぼす作用を「構築」と呼んでおり、「再構築は自由に行われるべき」というのは「今後の構築は社会規範に縛られるべきではない」という事を指していると考えるのが妥当だろう。GIDのくだりも、あくまで現在ではなく"ジェンダー・アイデンティティの定義が自由ではなかった頃"におけるGIDの話を挙げて「第二期的だ」と示しているだけで、別に現在のトランスとの対比ではなく、美容のくだりを発端にして「身体を自由に作り上げてよい」という社会意識が確かに形成されている事を説いてるだけに過ぎない。

「千田氏の応答に対して」の追記 


注26 清水晶子、2020、「埋没した棘―現れたかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」『思想』1151号、岩波書店。

尾崎日菜子さんはアカウントを削除されてしまっているため、スクショを貼っておく。このツイートを擁護する論文である。

尾崎日菜子さんのツイート


注27 清水晶子さんが主導して、私を「キャンセル」しようとしたことは「何の話だか全くわか」らない。「完全な妄想」で「誹謗中傷も甚だしい」のだそうです。驚いた。 

注28 聞き手・宮廻潤子 2023年8月16日 12時00分「欧米で使い古されたデマ、トランスジェンダー標的に 神谷悠一さん」『朝日新聞』

――性的少数者に関する法整備に関し、「男性器を持つ人が女風呂に入ってくる」「女性を自称すれば誰でも女性用トイレに入れるようになり、性犯罪が増える」といった言説が散見されます。現実にそんなことが起きるのでしょうか…(略)

トイレや公衆浴場、更衣室などに違法な目的を持って入れば、性別にかかわらず現行の刑法で罪に問われます。不安を受け止めながらも、施設の構造などから具体的に犯罪を防ぐ手立てを議論しなければ、性犯罪を防ぐことはできません。 また、公衆浴場は「男女」で区別することが国の管理要領で定められており、身体の特徴に基づいて判断することは合理的とされています。男性的な身体に見える人が「心が女性」と言って女湯に入れるようになることはありません。

「欧米で使い古されたデマ、トランスジェンダー標的に」神谷悠一さん

注29 騒動から5日ほど経過したのち、社会学者の小宮友根さんは、自身のブログで私を批判しているが、理由は「日本のトランスアクティビストの発言に異論を唱え」「自身の主張をした」からである。

そこで書かれているのは千田さん自身の主張です。しかもそこでおこなわれているのは日本のトランスアクティビストの発言(補足:畑野とまと、三橋順子)に異論を唱えることです。

小宮友根『現代思想』の千田論考について

またセルフIDに関しても、

「セルフID」について読者に与えられる情報は「性自認で性別が決まる」という言葉だけなのですが、これだけ言われて問題を理解できる読者はいないと思います。

小宮友根『現代思想』の千田論考について

と私が批判を受けたのはまるできちんと説明をしなかったことが原因であるかのように述べている(ぎゃくにいえば、私を批判する側の理解が間違っていることに気づいているのに、その責任をに負わせて、理解の間違いを不問に付しているともいえる)。詳しくは以下


注30 千田有紀、「2022年度斉藤正美さんの発表について、カルチュラルスタディーズ学会に出した質問状」

斉藤さんが私の論文を取り上げてくださって、有難うございます。
私の論文がトランスフォビアであるならとても大変なことだと思いますので、もう一度説明していただけませんか?
『現代思想』の論文は、トランスジェンダーの性自認を最大限尊重し、セルフIDを採用してよいと思う*。そうなると、どのような社会制度を構築していくべきなのかについて考えた論文です。問題になっているのは(学術会議の提言の根拠となった論文でも、女性トイレ、女風呂、などが取り上げられているのであり、私がこだわっているわけではありません)、取り上げられてくださったことは、強制性交の定義が男性器である社会で性被害者である女性が風呂で「ペニスのある女性」に混乱するというのは理解できる、という一定の理解を示したところですが、こうした理解は、差別に当たるということでしょうか?
『社会学評論』においては、清水晶子さんの「埋没した棘」論文を取り上げた文脈で、風呂やトイレに言及したのですが、取り上げたのは清水さんであって、私ではありません。文中のトランスジェンダーにはトランス男性ほかさまざまなトランスが入っていますし、女性のなかにはトランス女性も入っています。いろいろ考えてこの表現を採用したのですが、この表現によって、私の論文がトランスフォビアということになるという理解でいいですか?
論文が学会で「トランスフォビア」といわれたことに非常に驚いておりますので、この学会でなくても、どのような形でもお返事いただけると幸いです。

2022年度斉藤正美さんの発表について、カルチュラルスタディーズ学会に出した質問状

この論文を書いて以降、さまざまな嫌がらせを研究者からも受け続けてきたが、一例として研究者である三橋順子さんの発言を2つほど貼っておく。三橋さんだけでもこれ以外にも大量にあり、裁判をしようかとも思ったが、あまりに馬鹿馬鹿しく、また体調を崩していてできなかった。大学院に7年通い、吐きながら博士論文も書き、研鑽を積んできたが、「コネと運で常勤職になったが能力がない」などと他人にいったことなどない。コネや運「だけ」で就職などできないことは自明だからである。




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