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漱石山房記念館に行ってきた

念願叶って、新宿区立漱石山房記念館を訪れた。ちょうど「三四郎の正体 夏目漱石と小宮豊隆」という特別展の最後の週に間に合った。

地下鉄東西線の早稲田から歩いて新宿区立漱石山房記念館に向かう間に掲示されていたポスター

2018年に東北大学附属図書館を拝命したとき、夏目漱石の旧蔵書3,000冊や、自筆の原稿、手紙、手帳等の資料がそっくり「漱石文庫」として収蔵されていることに驚いた。

漱石文庫の自筆資料については、2019年のコロナ禍直前にクラウドファンディングを立ち上げ、多数の方々から当初の予定を大幅に上回るご寄付をいただいてデジタルアーカイブ化して公開している。

さて、「小宮豊隆(こみやとよたか)って誰?」という方もおられるだろう。小宮豊隆(1884年3月7日 - 1966年5月3日)は、日本の独文学者、文芸評論家、演劇評論家として知られる。福岡県仲津郡久富村(現在の京都郡みやこ町)に生まれ、東京帝国大学独文科を卒業後、夏目漱石の門下生として活動を始めた。

実は、小宮は漱石とたいへん親しく、漱石の作品「三四郎」のモデルとも言われ、今回の特別展ではそのような意味でフィーチャーされた。漱石ともっとも身近に接していた小宮は、漱石の没後、「漱石全集」の編纂に尽力し、この文学的遺産を後世に伝える重要な役割を果たした。彼の著作には『漱石の芸術』や『夏目漱石』などがあり、漱石研究において不滅の基礎を築いたとされる。

ここまでのことをご存知の漱石ファンもいるかもしれない。だが、小宮豊隆は実は「漱石文庫」の一番の立役者なのだ。欧州留学からの帰国後、小宮は1924年に東北帝国大学(現在の東北大学)法文学部のドイツ文学の初代教授となり、1946年まで教授として在籍。退官後、東京音楽大学(現在の東京藝術大学)の校長を務めたが、東北帝国大学からは名誉教授の称号が授与された。東北大在籍中に附属図書館長を務めた小宮は、というより私としてはお目にかかったことは無いのだが、小宮先生は、第二次世界大戦の戦禍を避けるために、漱石山房の書籍や資料を仙台に移すことを提案したのだった。

もちろん、移転先として東京大学の附属図書館の名前も挙がったのだが、同館ではすべての書籍に「分類配架方式」を採用していたため、一括した収蔵を希望した夏目家との間で折り合うことができなかった。空襲で漱石山房は焼失してしまったのだから、小宮先生のご英断により、漱石文庫は仙台の知で生き延びることができたのだ。

今回の訪問に備えて、audibleで漱石全集を毎日、通勤時間に聴いていた。ほぼ発表順に聴いたので、ごく初期の『我輩は猫である』から、前期三部作、後期三部作と移り変わる様子を感じ取ることができた。

個人的には『三四郎』を愛読していて、里見美禰子のファンなのだが、漱石の描く女性像は女性の目からみればいわゆる「中二病」のような印象だ。遺作の『明暗』になってようやく女性の多様化がみられるように思う。そのような時期に帰らぬ人となってしまったことは、とても残念だ。

さて、特別展では、漱石山房記念館収蔵のアイテムだけでなく、我が東北大学附属図書館からも貸し出したものもあり、さらに、小宮の実家に残された什器等も展示されていた。

漱石山房記念館の建物は入江正之(いりえ まさゆき)氏の設計。建物のデザインには漱石が晩年を過ごした地の歴史的背景や周辺環境を考慮した要素が反映されているという。とても素敵なところだったので、ぜひまた訪れたい。

吹き抜けの空間が美しい
カフェで「空也もなかセット」をいただく

漱石ファンの香日(こうひ)ゆらさんのイラストもあちこちにあって楽しかったです♬(さつえいせず)

そういえば、ふと思い出したのだけど、塩野七生先生、ここしばらく明治の頃の文豪やら偉人やらを取り上げておられるが、最近、お話していない。年が明けたらご連絡してみよう。こちらはご自身の骨折について「ローマでの大患」として書かれたエッセイ他、漱石に関するもの。

以前に書いていた三四郎に関係する拙文はこちら。


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