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異なる意見や価値観と,どう接したらいいのか


数日前、夜中に目覚めて眠れなくなり、ベッドの中で、河合隼雄先生の講演を聴いていました。

「河合隼雄とは何者か、ということは私が一番知りたいことでして…」
と始まるこの講演。
なぜ心理学に興味を持って臨床心理学者となったか、自然科学の抱える限界、
日本人は多神教と思われているが実は一神教的なところを持っている、
臨床現場でのこと、ご友人の座禅体験談、深層意識など、内容は多岐に渡り、
1時間という長さですが、先生の著作をギュッと凝縮したようなかんじです。

講演も中盤を過ぎたところ、コンステレーションのお話に続き、
「こどもは完全に一つの世界であり、一つの星である、だから操作はできない」と仰ってから、多神論と一神論について話題が移っていきました。

みんながいろんな考え方を持っているんです。 ー略ー

そしたら、みんなが勝手なことをしているのか、
勝手なことをしていいのか?
私はそうは思わないんですけれども。 ー略ー

ギリシャの神々たちは、言い合いをしたり、ケンカしたりしながら、
みんなちゃんと共存しているんですね。 ー略ー
それぞれ考え方が違い、感じ方が違いながら共存することは可能ではないかと、
私は思っているんですね。 

それはお互いを理解する事によって。
そして、もう一つは、関係を切らないことによって。
ぜんぜん違うから「ほっとけ」とは言わない。

ぜんぜん違うけれども、あるいは、違うがゆえに、
もっと知ろうではないか、
もっと話し合おうではないか。

河合隼雄 現代人の心と問題より


「これかーーーっ!」   
私はがば〜っとベッドから起き上がり、(深夜の3時頃^^;)メモをとり始めました。
去年のアメリカ大統領選挙の前後に見たドキュメンタリー番組がすぐに頭に浮かび、その時に感じた暗く重い気分に対して、河合先生のお話によって、突破口をみつけたような気持ち(こんな感じ\\\\٩( 'ω' )و ////)になったからです。
更には、私が友人関係とのことでもやもやしていた事に、解答を得たような、
すっきり感も得ました。

そのドキュメンタリーとは、アメリカのハーバード大学から発端した、イスラエルのパレスチナ攻撃に反対をする学生運動を題材にしたものでした。
学生達の主張だけでなく、学生運動を批判する人々とその対応(その学生運動に参加していた者は、うちの会社では雇わないとの声明や、大学への援助金停止など)、大学の関係者・学者など、様々な立場の方々のインタビューを紹介し、当時の米国メディアの反応まで盛り込んだものです。

番組は以下の言葉で終了します。

社会全体として、政治的観点が大きく異なる人々の間で議論する能力が失われつつあると考えています。それは大学が学生に教えなければならない最も重要なことの一つです。

as a society, we’re losing our ability to have discussions among people with very different political points of view, and it’s one of the most important things the university has to teach its students.

カリフォルニア大学学長 Carol Christ

ここオーストラリアでも、米国ほど大騒ぎにはなっていないですが、パレスチナ問題に関連した抗議デモが毎週行われたり、ユダヤ人コミュニティ集会所の放火などが最近ありました。

意見の相違。身近なところで、私の個人生活を書いてみましょう。
時事問題などを話している際に、妙に感情的・攻撃的になる数人の友人たちに時に辟易とし、どう対応したものか、などと考えていました。
とはいえ、共通の趣味もあり、一緒にいて楽しい時間を過ごすことも多いのです。やはり関係続けるのって、いいことなのだわ、と先生からお墨付きをもらった感覚です。
そして、違う意見の彼・彼女たちと意見交換することはとても大事で、面白いことだと再認識しました。

ぜんぜん違うけれども、あるいは、違うがゆえに、もっと知ろうではないか、もっと話し合おうではないか。


再び読み返してみると、至極当然で、当たり前のことですが、私たちは当事者になり渦中にいると、すっかりこの原則を忘れてしまいがちではないでしょうか。
政治的な意見の違いだけでなく、些細な友人・家族との意見の食い違いについても、つい気分を害したり、ひくつになったり、感情的になってしまったり。

では、その話し合いはどうしたらいいのでしょう。
前述のドキュメンタリー番組のように、自分の考えや言い分を連ね、相手の批判ばかりしていたのでは、理解し合うことはできないでしょう。

そういえば、以前傾聴ボランティアの研修をした際、
「相手の話をよく聴く」「どう相槌をうつか」というような話がありました。
相手の話は、言葉だけでなく、声のトーンやスピードにも気を配り、そこから理解を試みるとのこと。
河合先生の臨床の説明では、自分がどんどん話すのではなく、相手の様子を見て、その人の言うことに対して出方を考える、真剣勝負のようなものだと、書かれていたのを今思い出しました。

鷲田;前に『「聴く」ことの力』に書きましたけど、聴くということが…。
河合;辛い。 
鷲田;辛いというより、喋るより遥かにエネルギーがいる。 
河合;それはものすごいエネルギーが入ります。

臨床とことば 河合隼雄・鷲田清

そうなんです。「トランプに投票する理由」という友人の主張を聞いていて、私はひどく消耗したことがあります。
自分の主張をするよりも、相手を理解しようと耳を傾けることは簡単なことではない、というのは、対立する二者間でしたら更にエネルギーが必要であることは想像に難しくないでしょう。
では、そのエネルギーは何に根ざしたらいいのでしょう。
先ほどの「現代人の心と問題」の講演の中で、「もっと話し合おうではないか」という言葉に続いて、先生はこのように仰っています。

その「愛する」という言葉がありますけれども、それは「いかなることがあっても関係を切らない」ということではないかとこの頃思っています。



あー、そのー、あの、、、話はずれますが、この部分、まさに!!! です。 
痛っーーーい、です。 (><)
はい、すみません。私、離婚しました。
はい、「愛」なくなっちゃてたんですね、ある意味。。。未熟でした。
もし、次回に何か機会がありましたら、この先生の言葉を、胸にどしりと置き直して、関係を続けていきたい次第です。(⌒-⌒; )


話を戻します f^_^;

河合先生の著作やお話は、いつもこのように、ふと、私が抱いていた疑問への示唆や、気づき、そして過去の出来事に対しての理解を深めてくれるのです。

度々の引越しで、これしか手元に残っていない河合先生の本。もったいないことをしたなあ。


私は以前、なぜ河合隼雄先生が好きなのか聞かれて、こう答えました。

「博識、知性と教養・経験に根ざした洞察力、優しさ、人間が好きで、その好奇心は暖かな何かで裏づけされている」

年末の思いがけない出来事の中、「河合隼雄」とnoteで検索した結果、様々な情報を知ることとなり、そのnoterさん方と交流したこの数日間。
自分の中の何かを、少しずつまた掘り下げている気がしています。
会ったこともない、河合先生の影響と、そのコンステレーションに感動と感謝です。

あ、また話がずれちゃった、か、な。
とりとめのない内容でしたか(゚∀゚)
私の中では、みんな繋がっているんです。

おまけ;冒頭の写真は、パレスチナ攻撃に反対する近所の張り紙。
「Ceasefire Now = 今、停戦を!」

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