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(写真→記憶を強化)×(思い出→美化)=写真は思い出を美しく残しすぎる

子どもの頃に家族でディズニーランドに行ったことはすごく憶えている。その頃の他の記憶なんてほとんどないのに、すごく憶えている。おかしいくらいに。
そう、おかしい。

写真は記憶を強化する


これは写真があるから、その写真にまつわる話を聞くから、"憶えている"だけなのだ。
自分や周りの人が思い出したことを憶えている。
それを自分が憶えていると勘違いしている。

ただ、わたしはそれを検証することはできない。

他にもそんなことばかりだ。
小学校の遠足とか、中学生の修学旅行とか。
その時の感情くらいしか思い出せないはずなのに、写真がある場面は、"覚えている"。
写真は記憶を強化する。そして引き出しのラベルになる。

そして、大抵それはいい思い出。

思い出は美化される

思い出は美化されるとよく言う。美化されるというか、きっと、嫌なことを忘れている。
すごくすごく嫌なことは深く記憶に刻み込まれるけれど、すこしばかり嫌な記憶というものは、しれっとふわっと忘れてゆく。そんなことなんて元から存在しなかったかのように。
しかも自分にとって少しばかり嫌な記憶というのは、他の人にとってはもっとどうでもいいことであることが多い。
そんなわけで、誰にも想起されることなく、ふわふわり、記憶の海の底に溶け込んでしまう。
そして綺麗に浄化された部分が"美しい思い出"となる。たぶん。
わたしのような秒速切り替え寝たら忘れる人間は、なおのことそうだ。フィルターの性能が良すぎる。一晩で浄化される。

写真がある思い出は、そんは、強化と美化の作用の相乗効果によって、綺麗な鮮烈に記憶している思い出に勘違い(極論)されてゆくのではなかろうか。

写真は真実を写すというが、きっとそんなことはない。
フェイクにするつもりがなくてもフェイクになってしまっていることがあるかもしれない。
疑い疑い写真をみるのが普通、そんなことだらけの世の中になってしまわないことを祈るばかりだ。


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