努力しているときだけ
私は長いあいだ自分のことを嫌いだと思っていましたが、それでも努力しているときや、がんばっているときだけは、自分のことを好きだと思えていました。
昔、母から
「あんたは努力できる所がすごいね」
と褒められたからかもしれないです。
母に、
「私にはいい所が一つもないのかな?」
と訊いたとき、一つだけでも長所を見つけて、そう言ってもらえたことが嬉しかったのを覚えています。
高校生のときはダイエットをして10キロ減量しました。
これも食べちゃだめ、あれも食べちゃだめと色々な制限をかけて、ダイエットのことばかり考えていました。
努力の成果で体重がわずかでも減ったときは、自分をすごいと思えました。
生理が止まるまで、がんばっていました。
さすがに、そのときはヤバいと思って、ダイエットはやめました。
(その反動で次は過食に走って、10キロ以上太ってしまいましたが…)
勉強では、好きな科目が英語しかなかったので、もっと英語ができるようになろうと努力していました。
社会人になってからもTOEICを30回以上受験して、がんばっている自分に酔っていました。
仕事で新しい業務を覚えられないときは、自宅でマニュアルをまとめながら、
「努力さえしてればうまく行く!
できなくても、努力の量でカバーする!」
と思っていました。
でも、思うように仕事ができない自分を努力が救ってくれない現実にぶつかったとき、一つの長所だと思っていた「努力する力」さえも役に立たないなら、もう自分には何の価値もなくなってしまったなぁと悲しくなりました。
そんなときに、本を読んだり、カウンセリングを受けたりして新しく出会った価値観が、
がんばれなくても
できなくても
私という存在そのものの
価値は変わらない
というものでした。
努力をやめたら自分はますますダメになると思っていたけれど、自分がこだわって努力していたことをやめても、自分の価値は変わらないということ、少しずつ受け入れられるようになりました。
仕事もマルチタスクをこなせるようになろうと努力するより、ゆっくり丁寧に、自分のペースで作業できる仕事に転職してから、楽になったし、幸せに働けるようになりました。
できないこと、足りないものを直すより、できない自分、足りない自分も受け入れて、それでも大丈夫と思えたから変われたのだと思います。
一時は「努力」とか「がんばる」という言葉に嫌悪感を抱いて、絶対に使わないようにしていた時期がありましたが、最近は「がんばるのも悪くない」、といい意味で力が抜けてきました。
力の抜き方が分かってから、「またがんばってみたい」という気持ちで再開したのが英語学習です。
無理をしすぎず、自分のペースでコツコツと。
そんながんばり方が、いまは好きです。