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東洋哲学や科学的な概念が「わかる」ということはどういうことか?

『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』(飲茶著)

 東洋哲学を頭で理解しようとして、わからなかった経験がある。
これに対し、著者は、

「説明による伝達不可能性」という致命的な問題を抱える東洋哲学は手段を選ばず「ウソ(方便)」という反則技を持ち込まざるを得なかった。

 と見抜く。

 「説明による伝達不可能性」の意味は、頭で理解する。あるいは、説明だけで理解することができないということである。しかし、これは、「東洋哲学」だけに言えることなのでしょうか?

 科学的な概念でも、「説明による伝達不可能性」部分があるのではないか。
つまり、いくら説明を聞いても、「腑に落ちない」という感覚だ。たぶん、それは、十分にわかっていないのだ。
 このような場合、何かの「きっかけ」があって、「わかった」状態になることがある。科学の場合、計算式を解くことや、人に教えることなどがきっかけになることが多い。さすがに、科学では、「方便」は使わない。

 個人的な経験を言えば、高校生の時に、微分の説明が腑に落ちなかった。微分はグラフに書かれた傾きを表すという。確かにそのとおりだ。でも、その時の自分には、腑に落ちない。
 「傾き」が何を意味しているのか?
 「傾き」がわかる必要があるのか? 

 その後、大学で物理学を学んで、グラフの「傾き」が物理的意味を持っていることがわかってから、理解できた。
(現在では、微分の「理解」は、2枚のグラフをいききする「変換」と考えています。当然ながら、積分はその逆変換)

そして、さらに著者は、「ウソ(方便)」について続ける。

「しかし、それでもそのウソは効く。人生が三六〇度ひっくり返ってしまうほどに効く 。」

 これこそが、東洋哲学の偉大な哲学体系であると。

 本書の最後に著者名の由来(禅話)が書かれている。これについては、ある種の落ちなので書かないことにする。読み上げたときにそこで腑に落ちるようになっているのである。

 あえて触れていませんが、「刃牙ファン」にはたまらない装丁になっています。ムックで買った方が大きくていいと思います。


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