#それぞれの10年-3.11に生まれて-
わたしは子どものころ、3月11日生まれだということをクラスメイトに隠していた。早生まれでなかなか誕生日が来ないし、クラスに3月生まれの人がいなくて、恥ずかしかったのだ。今は誕生日を聞かれると、「3月11日です。震災の日です」と伝える。わたしの誕生日を思い出すと同時に、震災のことを思い出してもらえたらと思っている。
東日本大震災から、10年が過ぎた。テレビや新聞では「10年」が一つの区切りとして大々的に特集が組まれ、各地でイベントを催して被災地に思いを寄せようという動きを感じる。キリのいい「10年」という数字が切り取られがちだが、「そこで一区切りつける」といった考え方には疑問を感じる。そのような数え方は結局人間が作ったもので、被災者や被災地に区切りも何もないと思うからだ。
地震の日
2011年3月11日。わたしは15歳になった。高校受験は前期試験で早々に済ませ、ときどき部活に顔を出し、ろくに勉強もせずに中学の卒業式を終え、退屈な毎日を送っていた。
その日は昼頃から近所の公園で幼なじみとお喋りしていた。一緒に自転車で15分ほど離れた大きい古本屋へ行き、ちょうど本を物色していたときに地震が発生した。携帯の地震アラームは鳴らなかったが、これまで経験したことがないような大きな縦揺れではあった。ただその時点ではまさか大地震が発生しているとは思わず、そこまで慌てることもなかった。古本屋の本棚は天井まであるほど高くて、落ちてくると危険だからという判断だったのか、店員が外へ誘導してくれた。そのときの店員の誘導が冷静かつスムーズだったので、あまり慌てることもなかったのかもしれない。揺れが落ち着いたのでもう一度古本屋の中に戻ろうと思ったのだが、一緒に来ていた友人が帰りたがったので帰ることにした。自転車での帰り道で、揺れのせいか少し亀裂が入ったコンクリートの道路や、黄色信号が点滅していて信号機が機能していない状態を見て、改めて、家や家族のことが心配になった。
家族に怪我などはなく、家も壊れたものはなく無事だったが、帰宅してテレビをつけると福島県あたりで大地震が起こったとのこと。その日の夜は家族がわたしの好きなお好み焼き店に連れて行ってくれる予定だったのだが、電話をしてみても繋がらなかった。仕方がないので車でお店の方まで行ってみると、辺り一帯が停電になっていた。お好み焼き屋も真っ暗で、そのまま帰宅した。帰り道の車の中で家族から誕生日プレゼントをもらって、「忘れられない誕生日になっちゃった」とぼんやり思った。
翌日の3月12日、福島第一原発の一号機が水素爆発。それまで原発や原子力発電が一体なんなのかよくわかっていなかったし、知ろうともしていなかった。日夜行われている計画停電、どんなテレビ番組をみても横に表示される日本地図と津波情報(TSUTAYAなどのレンタルビデオ店ではあらゆるDVDが一気に借りられたそうだ)、ニュースの中の大人たちが「原発」と騒いでいた。なんとなく自分には関係がないようで、他人事のようでだった。遠くの福島県で大変なことが起きている。そんな印象だった。
3月11日はたくさんの人が地震と津波によって亡くなり、行方不明になり、日本中、世界中で悲しい記憶が刻まれる日となった。わたしはこの年以来、なんとなく自分の誕生日を心から祝うことができず、むしろ祝われることに多少の後ろめたささえ感じるようになった。
10年後のわたし
昨年の9月に栃木県那須塩原市に引っ越し、福島第一原発から約100kmの場所で、サステイナブルな循環型有機農業をするコミュニティのボランティアとして生活している。オーガニック野菜を作るためには健康な土づくりが不可欠なので、土の健康を奪ってしまう放射能と、一度事故が起きれば二度と元通りにならないリスキーな原発に対して、原発事故以降、コミュニティとして反対してきた。今でも定期的に畑の土や収穫物、野草を採取し、専用の機械で放射能を測定しており、はじめて「放射能」「原発」「福島」「汚染」といったワードが、身近な言葉となった。
はじめての福島
先日初めて福島へ行ってきた。双葉町の東日本大震災・原子力災害伝承館(以下、伝承館)へ訪れ、語り部の方の話を聞き、双葉町周辺を散策することもできた。語り部の方は、最初は淡々と当時起こった事柄を述べてくれたのだが、質問タイムになると個人的な思いも吐露してくれた。
「”復興”という言葉を使って、明るいニュースが報じられがちだが、現実を見てほしい。(汚染がひどい)双葉町には誰一人住んでいないし、今もまだ住めない。」
「帰ってきても良いですよ、と国から言われたとしても、家を片付けて、また建てる元気は残っていない。高齢者の中には戻りたいと考える人も少しはいるが、その子ども世代は誰一人そう思っていない。だから、何もできない。」
写真は伝承館の屋上から見える景色。木々の奥には福島第一原発が見える。手前の広場には数え切れないほどの黒い袋(一袋は約1t)があった。中には除染作業で出た土や廃棄物が入っている。放射性物質が付着した地表部分の土を削り取っては、袋に詰めるという作業でできたものだそうだ。
これらの不気味な黒い袋は、伝承館へ向かう途中の山道や街中でもたくさん見られた。もし自分が被災者だったら、このような場所に「帰っても大丈夫です」と言われたところで、帰りたくはないだろうと感じた。
地震、津波から丸10年。双葉町の駅周辺へ行ってみたが、がらんとしていて人は誰もいなかった。自宅を片付ける元住民はちらほら来るらしいが、午後4時になると帰宅を促す放送が流れる。
福島第一原発から4kmに位置する双葉町は、今もなお汚染がひどく、帰宅困難地域に指定されており、誰も住めない状態だ。民家の窓ガラスは破れ、中が見える状態の家もあった。家具は倒れ、天井は剥がれ落ち、洗濯物が部屋干しされてあり、埃が被った状態で、散らばったお茶の袋の賞味期限は2011年9月だった。
「地震と津波だけだったらまだ良かった。原発がなければ、、、。」
とあるドキュメンタリー映画での被災者のセリフが忘れられない。道路に散らばる窓ガラスだったであろう粉々の破片が、わたしの心を強く揺さぶった。
批判的思考、知識、想像力を持とう
子どもの頃は、「中国産の食べ物は農薬まみれだから買うべきじゃない。国産のものを選べば安全だ」と言われてきた。また、「中国では野菜を料理する前に洗剤で洗わなければならない」と誰かから聞いたときは、いつでも安全な野菜が手に入る日本に生まれてラッキーだと思った。でも今はそうじゃないことがわかる。日本は世界有数の農薬大国で、わたしたちが普段利用するスーパーや八百屋の野菜は農薬まみれなのだ。
震災後、母は福島県産の作物は買わなくなった。特に、以前は東北の米を好んでよく買っていたが、震災後は鹿児島県などの出来るだけ南部の産地の米を買うようになった。スーパーでも、値崩れした福島県産の米をよく見た。魚に関しては、福島はもちろん茨城や千葉なども汚染されているという情報を聞いて、購入を避けていた。家族はレンコンが好きだったが、スーパーには茨城県産のものが多かったので、冷凍食品のレンコンを買っていたそうだ。わたしの母だけではなく、たくさんの人が色々な情報に触れて、これまでの買い物の仕方を変えただろう。国は放射線量の基準値を設定したが、それが十分かどうかはわからないし、それがわかるのは10年後、20年後、細胞分裂が活発な子どもたちが次々とがんになってきたら。。。そんなことでは遅すぎる。福島県産や汚染の可能性がある土地のものを選ばないに越したことはないと思ったのであろう。
しかし、少なくとも現地の人は全ての福島県産の米の放射線量をきちんと検査し、安全性を確認している。福島県産の米袋には、放射性物質検査済みのラベルが貼ってある。それに引き換え、東京、大阪など他の県では、福島から距離があるからといって、だんだんと汚染の存在を忘れ、何も考えずにスーパーのものを買っている実態もある。
わたしが住んでいるコミュニティは、独自の厳しい基準を設けて、専用の機械で放射線量を測っているが、ここを出たらこれから何を食べて良いのかわからない。
負の歴史を忘れない
放射能汚染の範囲は広く、神奈川に住んでいても被害を受ける可能性があることは分かっていたが、1年、2年と時間が経つにつれて、普段食べるものや被災地、被災者のことをどんどん忘れていく自分がいた。3.11の津波のあとに、地元である湘南の海岸エリアの土地が暴落したと親から聞いた。今はまた、土地の値段が以前と同じぐらいまで戻ってきているらしい。
わたしたちは簡単に忘れてしまう。良い記憶も悪い記憶も。ネガティブな記憶だったら特に、忘れたくなることもあるだろう。でも、本当にそれでいいのだろうか。事実を知って、向き合うべきだと思う。戦争や原爆、慰安婦問題をはじめとし、アジア諸国に日本がしてきたさまざまな仕打ち、ハンセン病患者やアイヌ民族、沖縄、被差別部落、在日の人々を差別してきた(している)こと、イタイイタイ病や水俣病などの公害、企業の有害物質混入事件、、、。挙げていくとキリがない。どれも決して忘れてはいけないことだ。
被害者や当時を知る人はどんどん年配になり、彼らの話を直接聞くことも難しくなった。しかし、歴史は何度でも繰り返される。私たちが歴史を学ぶ理由は、私たちがやってきたひどいことを二度と繰り返さないためだと思う。怖いのは、忘れてしまうこと。図書館にはたくさんの本やDVDがあり、インターネットで情報を知り、記事も読める。YouTubeやイベントで語り部の話も聞ける。SNSの時代はネガティブなことだけではない。この便利さを活用して、知り、学び、考え、シェアすべきだと思う。そして、できることならちゃんと声をあげていきたい。
震災後、東北へ行ってボランティアをする友人がたくさんいた。わたしにもチャンスはあった。行きたいとは思っていたが、なんとなく行くのを避けてきたようにも感じる。当時、自分はちゃんと被災者の気持ちに寄り添っていなかった。育ってきた故郷や暮らしていた場所を失う気持ちや、地元のものが食べられなかったり、風評被害で観光客が来なかったり、福島県産のものが売れなかったり、被災者として県外や遠くに避難するといじめにあったりといった被災者の苦しみに寄り添えていなかった。それを今、とても恥ずかしく思う。
現在わたしがやっているボランティアの期限は、今年の9月までである。「ボランティアが終わったらどうするの」とさまざまな人に聞かれるたびに、ワーキングホリデーや青年海外協力隊、wwoof、国内外のエコヴィレッジや、田舎のコミュニティに興味があると答えてきた。
しかし、直近でやりたいことを最近見つけた。それは、日本全国の語り部さんの話を聞く旅に出ること。自己満足かもしれない。考えなしかもしれない。でも、知らないままでいたら同じことが繰り返されるかもしれない。そうしたときに、この10年間、東北の被災地を傍観してきた自分に戻りたくはないのだ。