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五条天神宮〜日本最古の宝船図考6〜(少彦名とえびすと天神②)
前回までで、えびす神社やえびす神の狩衣や、京都・五条天神宮のと神紋との関連を踏まえ、主にえびすと少彦名命の共通性について語ってきましたが。今回は天神さんについて触れていこうと思います。
五条天神社は実は、東京・上野にもあります。室町時代にはすでに創建されていたそうです。神紋はガガイモではなく、こちら。
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つまり、天神さまもお祀りしてあるのですね。
「天神宮と天満宮」「天神(てんしん)と天神(てんじん)」問題について
一般的には由緒書等では、天神さま(天満宮)と天神宮は、名前は似ているけれども別物、となっていますが、果たして実際のところはどうなのでしょう?
実は、京都の五条天神宮にも天満宮が、摂社の一つとして別格扱いで祀ってあり、京都ゑびす神社もまた、天満宮だけ独立した御宮に祀ってあります(小松天満宮)。しかも北野天満宮遥拝所まであります。
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上記の神社に限らず、兵庫県・浜宮天神社、大阪府・露天神社など、少彦名命と天神さんが一緒に祀られている神社は少なくありません。
その中の一つ大阪府の服部天神宮によると、天神(てんじん)さんこと菅原道真は、太宰府に流される際に脚気に悩まされていたのですが、天神(てんしん)こと少彦名命を信仰することで病が治ったという伝説があります。
延喜元年(西暦901年)に、菅原道真公が京都から左遷され九州の大宰府へ向かう途中、持病の脚気に悩まされ足がむくみ歩くことができなくなりました。村人たちは、少彦名命をお祀りする祠で足病平癒を祈願することを菅公にお勧めされました。菅公が祠へお参りされますと、(中略)不思議にも間もなく菅原道真公の足の痛みは治まり、無事大宰府へご到着されました。
天神宮と天神さん、名前は似ていますが、名前だけではない因縁があったのですね。
そこでふと、ある重大なことに気づくわけです。
少彦名命 蛭子神 菅原道真
皆、船で流されているのですね。
秦氏は、少彦名命を尊崇していた!?
しかもですよ。服部天神宮の由緒書きには、驚くべきことが書かれていました。
足の神様としてご崇敬を集めている大阪府豊中市に鎮座する服部天神宮。「服部」という地名は、この辺りに朝鮮より機織の技術を伝えた秦氏が機織部(はたおりべ)として住んでいたことから、機織り(はたおり)から服部(はっとり)に変化し、成り立ったものと思われます。当時秦氏は、医薬の祖神「少彦名命」を尊崇していましたので、この地にも小さい祠を建て、お祀りしていました。
かの渡来人秦氏は、少彦名命を尊祟していたというのです。
聖徳太子に強く影響を与えた秦氏の族長であり、能の元祖としても知られる秦河勝には有名なうつぼ船伝説が残されています。
秦河勝の事績は、聖徳太子の記した御目録の中に記されている。それによると、そもそもこの河勝のことは、その昔の推古天皇の時代に、泊瀬川に洪水が起こり、上流からひとつの壺が流れ下ってきたことが発端となった。人々はこの壺を不審に思い、磯城島のあたりで拾い上げてみると、壺の中にはたったいま生まれたばかりの子供が発見されたのである。急いで其の子供を抱き取ってみると、そばにいた大人の口を借りて、こう語り出した。「ぼくは秦の始皇帝の生まれ変わりだよ。日本に生まれ出る機縁があって、こうして出現しました。急いで朝廷にぼくのことを報告してください」。しばらくしてこの報告は、天皇のお耳にも入った。天皇もこの子供の出現をいたく奇特なことと思し召して、自分のおそば近くにお召し寄せになり、親しくお育てくださることになった。
(中略)
秦の始皇帝は中国の皇帝である。つまり王であり、王とはすでに述べたごとく「翁」に他ならない。河勝は始皇帝の生まれ変わりと名乗っているので、ますます「翁」であることは疑いがない。そういうお方であったからこそ、猿楽の道を創始されることになったのであろう。そののち、猿楽の技を子孫に伝えたあと、現世に背を向けて、空船に乗り込んで、西方の海上に漂流をなさったが、播磨国の那波にある尺師の浦に打ち寄せられた。漁師たちが舟を陸に上げてみると、たちまち化して神となった。あたり一帯遠くの村々にまで憑いて祟りをおこなったので、大変に荒れる神と呼ばれた。すなわち大荒神となられたのである。
船に乗って来たのは王の生まれ変わりであり、翁であり、猿楽という芸能の創始者。
また、出雲建国の礎を築いた智慧ある種神であり、大漁と商売繁盛のまつろわぬ神であり、実在する人間存在でありながら、失意と絶望ののち、荒ぶる神となり、いつしか御神徳の高い神霊となって厚く信仰される御霊。
そうした存在が乗る、船・舟・舩。フネとは一体、なんなのでしょう?
おまけエピソード
ちなみに、五条天神には、弁慶と牛若丸の伝説も残されています。
五条天神のある松原西洞院界隈を歩いていると、こんな商店街の表示が出てきます。
「大」国主と「少」彦名じゃないですが、弁慶と牛若丸というのも大小のコンビ。
その後義経が海を渡って、チンギス・ハーンとして活躍し、大モンゴル帝国を築き上げた、なんていうトンデモ説まであるのは有名ですね。
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中世の日本人が、少彦名と牛若丸をアナロジー的感性でもって見つめていた可能性はあるかもしれません。