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「梅見と東京の梅名所の変遷」 ラジオ番組『仙波書房の東京歳時記』連動企画記事 2月分

季節ごとの東京の行事や、文化を文学作品内の描写から紹介するラジオコーナー番組『仙波書房の東京歳時記』は毎月第3土曜日の深夜に放送。
ラジオ連動企画記事として、noteでは番組の概要を掲載。
今回は梅の花を愛でる「梅見」と、かつての東京の梅名所の変遷について紹介する。

■文学作品パート
『東京遊行記』「夜の臥龍梅」 大町桂月 明治34年

一年の行楽は、梅にはじまる。
東京にては、梅のひらくは、二月の半頃より、三月の半頃にいたる。
処によりて遅速あり。
梅の樹の最も看るべきは、亀井戸の臥龍梅なり。
花は、白きを取る。
それも、単瓣なり。
重瓣は、俗なり。
紅梅は梅の軟化せるものなり。
香気、けだかきを、梅の特色とす。
殊に花は、満開よりも、半開がよし。
されど、梅は、花よりも、むしろ、枝ぶり、幹ぶりを看るべきものなり。
かかる標準よりして見れば、境はせまけれど、臥龍梅が、東京第一たることは、何人も首肯するなるべし。

こちらは東京亀戸の梅屋敷という梅の名所にあった「臥龍梅」について紹介している。
かつて存在した亀戸の梅屋敷は、浅草の伊勢屋彦右衛門の別荘で、清香庵と称し、ここには多くの梅が植えられていたことから梅屋舗と呼ばれるようになった。
そこには地面を這うような梅の木の枝ぶりが、まるで竜が横たわっているようだとということで、水戸光圀が命名した「臥龍梅」が存在した。
大町桂月は作品内で、「梅は、花よりも、むしろ、枝ぶり、幹ぶりを看るべきものなり」「臥龍梅が、東京第一たることは、何人も首肯(しゅこう)するなるべし」と、この本が書かれた明治39年当時は、東京の梅の名所の中でも、亀戸の臥龍梅が東京のベスト梅名所であると、大町桂月は記している。

また、当時はこちらの亀戸の梅屋敷の他、向島の百花園、新宿角筈の銀世界などの梅名所があり、梅見客は花の名所数箇所をはしごで巡り、楽しまれたことが他の文学作品に残されている。

■文学作品パート
『葛飾土産』 永井荷風 昭和25年

明治の末、わたくしが西洋から帰って来た頃には梅花は既に世人の興を牽(ひ)くべき力がなかった。
向嶋の百花園などへ行っても梅は大方枯れてゐた。
向嶋のみならず、新宿、角筈、池上、小向井などにあった梅園も皆閉され、その中には瓦斯(ガス)タンクになっていた処もあった。
樹木にも定った年齢があるらしく、明治の末から大正へかけて、市中の神社仏閣の境内にあった梅も、大抵枯れ尽したまま、若木を栽培する処はなかった。
梅花を見て春の来たのを喜ぶ習慣は年と共に都会の人から失われてゐたのである。

作品が書かれた昭和25年当時、向島、新宿角筈などかつての梅の名所では、梅の木が枯れてしまったり、再開発の影響で、梅園ごと無くなってしまったと書かれている。
前半で紹介した亀戸梅屋敷は明治時代末期の洪水で被害を受け、名木の臥龍梅の他、梅の木が枯れてしまい、梅園もなくなってしまった。
また、向島百花園の梅も荒廃し、梅園の管理を個人から都が行うようになったということが、永井荷風の別の作品『百花園』の中に記されている。

かつて角筈と呼ばれていた新宿駅周辺の梅名所であった銀世界は明治時代末期に用地をガス会社が買い、その後はガス供給拠点として活用されてきた。
ネットで「角筈・銀世界」と検索すると、ガスタンクが写る古い写真を見ることができる。
このガスタンク周辺は、その後再開発され、現在はマンションが立ち、かつての梅園の様子を想像することは難しい。

大町桂月の「夜の臥龍梅」、永井荷風の『葛飾土産』の2作品から、再開発や、他の理由で、次々に無くなっていった東京の梅の名所と、街の変遷が分かる。

このように明治から昭和初期の文学作品を通した当時の東京の季節ごとの行事や文化をやさしく紹介するラジオコーナー番組「仙波書房の東京歳時記」。
作品中に描かれている東京の行事、文化など、番組を通して、東京の現在と過去を感じてもらえたら、嬉しく思う。

■ラジオコーナー番組との連動企画
2月17日(土)の放送では、今回のnote記事にある「梅見と東京の梅名所の変遷」について紹介。
「Like water…」内
『仙波書房の東京歳時記』
2024年2月17日(土) 23:30~23:45
池袋FMにて放送!

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