あざける事、言葉をろうする事
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58774
を読んで書き起こしました。
嘲る、という事
上記記事は、僕の言葉で要約するならば、いじめ構造の一つです。
からかいの言葉は、防衛本能を刺激し、対象を硬化させます。
その変化を、からかう側は楽しむわけです。
オジギソウに触るように。
ダンゴムシに触るように。
僕は昨今、SNSは地獄、と考えています。
そして、SNS発足は人間社会への善意であったために、誰もSNSを否定できてないと考えています。
SNSなど、無い方が人類にとって平穏です。
その一側面をご紹介した記事の中では
仲間と面白さを、笑いを共有するのは楽しい。そこに快楽があることを、私たちはみな知っている。そして揶揄とはその快楽のために、異物とみなした人々を自分たちから切り離してもて遊ぶ行為なのだ。
と書いています。
SNSと噛み合ってしまう「共感」を求める気持ち。
「共感」を得て快楽を得て、さらなる快楽の為に「共感」されるものを求める。そして、タイトルにつけたように、言葉をろうし始めます。
言葉を弄す、という事
つまりは、言葉の持つちょっとした意味合いを、あざけりの対象へ引っ掛けたりするわけです。
これが文字列ならばまだ良いのですが、特定の単語になってくると、困った事が起きます。
http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20130304/1362393613
宇野ゆうかさんの文字列です。
この中で「野比のび太」という人物のニックネーム「ノビー」が嘲笑的に利用されていくと書かれています。
故に差別語というものは無くすべきなのだ、と結んでいるのですけども。
これが、「言葉を弄す」という事です。
文字列に自分の気持ちを込めて、意味を変えて使う事。
これが人類が分断される原因です。
僕は適切な道具を適切に利用される世界を求めています。
そうなった世界は、少なくとも、道具の使い方に関して、誰かが誰かを下に見る事は無いでしょう。
全ての道具が適切に使われるという事は、それらの道具は、その道具が持つ本質的な用途に限定できるようデザインされているからです。
…まー、色々と難しい道具もあると思いますが、概念としてご理解ください。包丁さんはちょっと控えててください。はい。
言葉も道具です。
適切に使うべきなのです。
これらが接合するとどうなるのか
私は何人かのフェミニストの方のアカウントを見るのが好きです。
男性への憎しみが満ちた文字列が出てきたとしても、その部分を除去して読むようにしています。すると、とてもさわやかな主旨が出て来ることも当然あります。
同じ文字列を見ても、同じ結果に至らない。
これは言葉を弄してきたからです。
責任を取ってこなかった人間がとてもとても多くいた、という事です。
「その言葉はそう取られても仕方がなかった。その点謝罪申し上げる」
こう言った言葉が聞こえてこなかったのだと、推測できます。
セクシャルハラスメントとされる
「今日もきれいだね」
という言葉の批判として「役割による権利の抑制」の意味を付加する事で人格的否定の意味に変化させる、など僕には衝撃でした。
理屈は、分かるのです。
女性は男性を喜ばすために居るものではないし、今日もきれいだねという言葉は、対象を褒めつつも、見た目が良いものであるからそうあるよう努力を継続すべきという押し付けである、と「言う事もできる」のです。
しかし、文字列一つにそこまでの意味を含めた時、
「今日もきれいだね」
という言葉が死んでしまう。この言葉が支えてきた世界が壊れてしまうのです。
きれいだね、とは、称賛の意味を持っていました。
称賛が、一つ世界から消えるのです。
そして、憎しみや怒りが広まります。
意図されてない意味が汲み取られ、広められ、共有され、今日もきれいだね、と言った人物はその称賛の意味は無視され、否定されるのです。
どうしたらいいのか
端的に、文字列を文字列として見るほかありません。
扇情的な文字列を除外して読むしかありません。
そして、自分人の感情を押し殺して行くしかありません。
大前提として、平和な世界が欲しいのならば、です。
この「感情を押し殺して」という文字列を見て、間違った事にも口をつぐめと言うのか、という人は100%出ると思っています。
感情を押し殺す事と口をつぐむ事は別です。
より正確な表現をするならば、文字列を書くことにためらいがあってはいけないのです。
ただし「正しい言葉を、己の感情をこめず書く事」です。
勝利したい人たち
僕は被いじめ経験があります。
ここで得た事は「みんな勝利したいのだな」という事です。
一番簡単な勝利は、相手が滅びる事です。
そう自認できればいい人は、相手を蔑みます。
そして今まで連ねてきた文字列ように、相手を蔑み、それに反発されると言葉を弄し、意味を変えて、意味を増やして、世界を崩していくのです。
人類の過半が、こう言った人たちでしょう。
つまり、善悪ではなく、人類というものはこう言うものなのでしょう。
ちょうど、本日目にした村上隆氏の著書の一部でも、どのような努力が必要なのかと高い熱量の文字列がありました。
この勝利は、どのような形であっても感じることができます。
例えばゲーム。例えばスポーツ観戦。例えば賭け事。例えばSNSの反応。例えば読書などでの追体験。
その中で、SNSの反応は、今や手軽に手に入る勝利ではないかと考えています。このような文字列を出力している僕自身ですら、SNSでのインプレッション数を見てほくそ笑むのですから。
前述したように、SNSは地獄、であります。
地獄とは
無限に続く、自動的に苦しみが再生産される、という意味を含めています。
これも言葉を弄している事になるのかもしれませんね。
ともあれ。
今までの記述は、嘲る側の話です。
嘲りを受けた側は、どうなるのでしょう。
好きなものを否定された時、主語を大きくして否定された時、自分が否定されたと思います。
本来は、その様な「誤爆」を防ぐために言葉を選ぶものですが、SNSでの勝利の為に、極論的であったり、過度に要約したり、意訳をしたりして「共感」を得やすいものとして勝利を望む人たちは投稿をするのです。
これをシステムとして提供するSNSは、以上の要素から、地獄であると評しています。
今後どうなるべきなのか
正直申し上げて、僕にはわかりません。
その様な世界のデザインをする能力はありません。
しかし、以上から、今のSNSが存在する世界に平和な未来は無いと考えています。
どっとはらい。