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熱平衡と障壁(人離れして格差を楽しむ方法)

人として生きるというのは基本的には他の生きている人に生きる力を与えるというのが本分だとは思う。そういう意味では別にどんな手段で生きてもいい。そういう目的があるなら下手な手段を打つこともまずない。それに本分からずれることもシナリオに起伏を生じさせることで他者の意味を格上げする。

その時のレベルに応じて、何に生きがいを感じるかというのはどうやってもあるわけなので、それに沿って生きることは悪いことではない。世間的とか社会的とかそういう評価よりも、本当にこれが自分の本質的な願望なのかチェックして疑いがないなら、自信をもってその生きがいに励めばいいだけだ。

ただ、視野が一つだと環境の変化を予期できなかったりする。そういう危険に対処できるためには、自分をも俯瞰した視点を持っていた方がいいだけである。世界が熱的平衡にあるなら問題はないが、そうでないなら障壁が崩れれば一番低い状態が自分の元にやってくる。障壁の存在は自覚すべきである。

いわば格差というのは障壁なのである。この障壁が永遠に崩れないと思っていた人はベルリンの壁でも驚いただろう。そして今も障壁は存在するし、その障壁は知らないうちに高くなりつつもある。大きな差が崩れる時が来る可能性は永遠の中では100%である。人生に終わりがあることは祝福だ。そして次の人生が障壁の内側か外側かは、必然を心得ていないなら運次第である。(次の生を選ぶ基準は善行ではない。いかに自覚しているかというレベルだ。)

全ての存在は質量としては等しい。その特質のベクトルがどこへ向かっているかという違いだけだ。ベクトルが一致しないように散らそうという動きがベクトル的に一致してきたら、当然、その反勢力もまた一致していく。本来は格差は熱的ではあるが、秩序の種別として維持すべきなのだ。

エントロピーゲームを始められるか否か、すなわち、エネルギーゲームに見切りをつけた人から、本当の世界(より高い視点から見た世界)を見ることになる。エネルギーゲームもある段階までは楽しいのだろうが、明らかに楽しくないとわかり始めたら、もっと意味(高エントロピーと秩序)を求めて生きるのもいいと思う。それが本当の霊長としての進化なのだから。

世界が幸せで素晴らしいと思っている人は、その素晴らしさを取り込む生き方をすればいい。だが、世界が腐っていると思うなら、障壁について考えるべきだ。その上で、障壁を実と見なすか虚と見なすかを決定して、その責任を自覚して生きるのがいい。その方が意味があって楽しいに決まっているのだから。

障壁を実として生きるのは実に人間らしい。そして虚として生きるときには人間離れするだろう。別にどちらかだけである必要はない。ほとんどの人は実を無意識に選択しているからその責任も知らないが、虚という視点もあれば、実として生きることも難しくない。虚に気がつくことの方が難しいだけだ。

虚に気がつけば、責任と自由の結びつきはわかってしまう。その結び目を解くことで高次の結びつきを発見するかもしれない。知らないまま高次に赴くよりは、ちゃんとわかった上で高次の法則に触れた方がいい。その段階をすっ飛ばすことで大地に残してきた宿題が、最後の最後で足を引っ張る。

障壁に関して無自覚に実として生きる。それは人間だ。そして、人間でいいのだ。だが、障壁に苦しめられる必然を享受したなら、障壁を虚と見なすことで、自ら意味を創出し、その意味を楽しんで生きることができる。虚に気がつく方が難しいのだから、まさしくそれは享受なのだ。

すべての人生は間違っていない。人を外れたとしても、それでも人としての在り方なのだ。

人はフェルミオンで、神はボゾンなのだ。アダム・カドモンは人から成る。

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