先生の味
母の味、父の味など、懐かしさを覚える味や料理というのは誰もがもっていると思う。
とくに複雑な事情もないザ・普通の家庭で育ったので、母の味は定番の肉じゃが。父の味はちょっと変化球で日清の袋焼きそば。
父が作る日清焼きそばはとんでもなく美味しい。水加減を間違えたらびちょびちょになるという、インスタント食品にあるまじき高難易度な技術を求められる代物を常に変わらぬクオリティで作れるのは我が親ながら誇りである。次に帰省したら絶対作ってもらおう。
いや、今日はこの話をしたいんじゃない。
最近は給食がない学校もあると聞くけれど、大半の方々は学校給食があったんじゃないだろうか。
好きな給食なんだった?は、地域性も出て楽しい質問だ。
そんな好きな"給食ランキング"にランクインしないどころか存在すら無きものにされ、けれど給食の基盤となっているものがある。それは「白ご飯」。
混ぜご飯はおかわりラッシュなのに、白ご飯の日は配膳係が目測を誤って食缶に残してしまったなら最後。冷めて固まっていくのを見て見ぬふりするしかない。
しかし私が小学校6年生のとき、そんな白ご飯に救済措置があった。むしろ、そのために少なめに配膳していた。
その目的は、担任の先生が残ったご飯で作ってくれる塩おにぎりだった。
「配膳された給食を食べきった人だけ」というルールを設け、食べきれる量を確認した後に握ってもらえる。ラップに包んで握ってもらったおにぎりは、白ご飯とは全く別物だった。具材の入った混ぜご飯よりも、塩だけでこんなに美味しいおにぎりが食べられるということが小学校6年生の私たちには衝撃的だった。
自分たちのクラスだけが知っている味。握ってもらう間に交わす先生との会話。教室内で食べるのに遠足のような高揚感。「先生のおにぎり」には、小学校6年生なりに感じる特別感が詰まっていた。
そこには、私たちと先生の間に特別な縁のようなものがあったことが大きく関係していると思う。
入学当初、私たちのクラスは「開校史上最強の問題クラス」と呼ばれていた。
調べてみたら中等・高等部も併設された尋常小学校から、現在の小学校へ変わってから50年程が経っていたので大袈裟な表現だと思うけれど、振り返ってみても相当ヤバいクラスだったのは事実だ。
非行とまではいかない可愛いモノではあるけれど、今なら支援学級を打診されるのだろうな思うという子が3人ほどいた。多動だったり、感情制御ができなかったり。それが30人弱の学級内に3人いるのだから結構な割合になる。
そんな学級を担任することになったのは(恐らく、かなりの職員会議を重ねた末に)当時は多分30半ば、ショートボブがよく似合う溌剌とした女性の先生だった。
休み時間が終わっても校庭で遊んでいて教室に帰ってこない、なんてことはザラ。それを「ぼくがよんでくる!」と颯爽と抜け出すやつがいる。待て待て待て、せめて上履きを履き替えろ。10分程度経過する。出た、ミイラ取りがミイラになる現象。
これが日常茶飯事だった。もちろん先生が二人のミイラを連れ戻しに行く。いつ駆け出してもいいように、教室の勝手口には先生の運動靴と、靴底を拭くための濡れ雑巾が置かれた。
授業中もとにかく落ち着きがない。先生が板書をしている隙に遊び始める。そのうち「先生は頭の後ろにも目があるからね」と言われるようになる。んなわけあるかい、と遊びはじめると「○○くん、座りなさい!」と板書したまま言われる。戦慄。先生、マジで後ろにも目があるぞ。
毎日注意をしているうちに、喉が潰れて大声が出せないという緊急事態が発生する。しかし、そこでへこたれるような人ではなかった。声を張る代わりにホイッスルを吹くという技を編み出したのだ。ホイッスルのほうが音も鋭く遠くまで聞こえるので効果は覿面。ホイッスルを合図に、教務主任が職員室からやってきて代打注意をするというコンビネーションプレイまで登場した。
そんな大迷惑をおかけした先生は、私たちが進級するタイミングで転任となった。
31人学級だった私たちは多少の転校などを経験しながらも、ほぼ同じメンバーのまま6年生に進級した。
6年生の始業式、担任発表。この一年を決める一大イベント。
全校生徒が体育館に集められて学級ごとに二列に整列で着座。その横に教諭が整列し、校長の発表で各学級の前に担任が立つ、というのが母校のやり方だった。
低学年から進んでいく発表。え?もう残ってる先生いなくない?と戸惑う私たち。
体育感の扉が開く。当時と全く変わっていなかった。先生が、私たちの前に帰ってきてくれた。私たちのクラスに用意されたサプライズだった。
声にならない喜びが二列の間を駆け抜けた。当時ミイラ取りになっていた男子が「すげー!」と言っていた。とにかく嬉しかった。神様の采配だと今でも思う。
ここで質問なんですが、牛乳をやたらと飲む男子、いませんでしたか?
体格差を埋めるためなのか理由は未だに不明だけれど、とにかく彼らは牛乳に飢えていた。欠席者のぶんはもちろん女子からも牛乳を貰って飲む男子たち。
そして冒頭の白ご飯問題。
いや、仮に体格差を埋めたいならお米も食べろよって思うんだけど。むしろお米でしょ。松岡修造さんも言ってるじゃん、テニスでも野球でもバレーでもそこは変わらないだろ。
食育という言葉が浸透しつつあった世代ということもあり、如何に残飯を少なくするかが常に課題となっていた。
時々聞く「食べきれなくて掃除の時間まで残された」なんてことはなく、どうしても食べられないものはこっそり隣の子に食べてもらうのが暗黙の了解となっていた。
そんな中、白ご飯は「好きでも嫌いでもない、お腹いっぱいだから頑張って食べようとは思わない」の代表格となり、残飯ゼロへの課題となった。
そこで先生が編み出したのがおにぎりにするだった。最初は「今日だけね」と言われていたような気がする。しかし私たちがあまりにも喜ぶため、先生は自席にサランラップと塩のボトルを常備することとなる。
プラスチックのお椀に盛られてお箸でモソモソと食べていたご飯と全く同じなのに、少しの塩を混ぜて先生が握ってくれただけで、どんどん食べ進められる。2つ目を作ってもらう子もいた。
好きな給食なんだった?と聞かれたら、黒食パンと先生のおにぎりがいい勝負だ。(黒食パンわかる人、どれくらいいるんだろう…)
先生と過ごす一年はあっという間だった。
そして迎えた最後の日。
小さな小学校なので卒業式は全校生徒が参加する。どんな流れかは1年生から知っているので「呼びかけ」で自分のセリフが飛ばない限りはとくに問題なし、と思って臨んだ。
この卒業式に、誰よりも強い想いをもって臨んだのは他ならぬ先生だった。
お決まりの流れで式は進み、遂に卒業証書授与。担任が一人ずつ呼名していくことになっている。
「平成17年度、卒業生」
涙で震えた声が静かな体育館に響く。
呼名が始まらない。
視界の隅に、肩を震わせる先生の姿が見えた。
涙ぐみながら卒業生の呼名をする先生はそれまでにもいた。幼心に「いっぱい思い出があるんだろうな」と感じていた。
けれど、出席番号1番の生徒を呼ぶまでにこれほど時間がかかった先生はほかにいなかった。
決心したかのように呼吸を整えると、ひとりひとりとの思い出を噛みしめるように呼名していった。
無事に式を終え教室に戻ると、先生は一転して晴れやかな笑顔だった。
きっと式で涙を出し尽くしたのだろう、最後は笑って私たちを送り出してくれた。
今でも時々、塩おにぎりを食べたくなる。
かといってコンビニで買うのは味気ないなと思い、自分で作ってみる。
やはり先生のおにぎりには勝てない。
少しの塩と、逞しさと優しさ、我が子のように想う気持ちを加えて握ってくれたおにぎりだからこそ美味しかったんだ。