宇治十帖の薫きゅん

めんへら薫きゅん

 皆さんは『源氏物語』はお好きだろうか。私はそれなりに。先日中古文学演習にて、浮舟巻の訳と考察をする機会があった。今回はそのレジュメをもとに薫きゅんについての考察を披露したい。

 高校時代、伝説の講義と言われる某M先生の源氏物語講座を聞いてから、匂宮派か薫派かという議論は身近でも絶えないものとなった。浮気性だが恋愛上手の匂宮、誠実で恋愛下手な薫……喧々諤々の議論の末に、「付き合うなら薫じゃね?」という結論に至ることが多かったように思える。
 だが、今回源氏物語関連の研究書を漁ってみると、大変に文化的資本の高い言葉で、学術的根拠をもって、薫きゅんはどメンヘラへたれ童貞野郎だと滔々と綴られているのである。おっと……

ちょっと引いちゃう薫きゅん

 恋愛下手といってしまえばかわいいけれど、彼はそれゆえに女性に強く出ることができない(童貞)。美しく知性もあり身分も高く女性の憧れの的だったというのに(モンスター童貞)、自分より弱い女性にだけしか安心して欲情できないのだそう。ざっくりいうと、
・人形愛好(ピグマリオン・コンプレックス)
・屍体愛好(ネクロフィリア)
→死にかける大君に欲情
→死んだ大君そっくりの人形を作りたがる
→浮舟をお人形さんにしたがる
というあたりに表れている。
 また、作中で薫の芳香が漂う様子が描かれているところは、たいてい薫が女に欲情したところだそう。きまりがわるいね。聖人のメタファーとは思えないね。おす。

 また、宇治十帖では、匂宮と薫が相互に意識をしあって、対極なようで、実は似たような構造をとっていることが容易に読み解ける。しかし、今回は、匂宮が匂いも声も薫にそっくり真似ているところから、薫の何が(匂宮をはじめとする)人々を引き付けるのか。また、登場人物としての意味は。匂宮や浮舟との差異もあげつつ考えていく。芳香と感情表現という二つの観点から見ていこう。    

芳香

 生まれながら体臭が芳しい薫とそれを意識して似た香を焚きしめる匂宮。
「かほる」と「にほふ」だが、どちらも芳しい香りを放つという意味。「にほふ」は視覚的に美しいという意味を孕むが、源氏物語では薫に関する記述でも「にほふ」はたくさん使われているため、使い分けはそこまでこだわっていないように思われる。
 さて、抑も薫の生まれながらの芳香は何を表しているのだろうか。
 当時の人々にとって芳香は死の象徴だったと私は考える。死とは、官能と宗教二つの意味を孕む。

①官能・死・芳香
神田龍身は大君が死にゆく場面から『源氏物語=性の迷宮へ』*4でこう述べている。
 もはや大君は「ものの枯れゆくように」事切れており、それは屍体以外でない。が、そのかみをくしけずるや、さっと芳香がたちのぼったとされており、おそろしいほどに官能的である。屍体のもつ官能性、それは『源氏物語』が宇治十帖にいたって発見したエロスであり……(略)
 このように、死が持つ官能性、そしてそのトリガーとなる芳香について言及している。また、この死にゆく大君の官能性は薫の目を通したものであり、薫の人形愛や屍体愛を顕著に表す部分でもある。この人形愛は、浮舟に向けられていく。

②宗教・死・芳香
極楽浄土ではとても良い香りが漂っているという話を聞いたことがあるだろう。そして、極楽浄土のみならず、聖人からはなんともいえない良い香りがするし、仏事をしているとどこからともなく芳しい香りが立ち込めてくるという。当時の浄土信仰からしても、薫の芳香は聖なるものとして扱われたと考えられる。匂宮が羨ましがるのも最もだ。
 ここから、芳香、そこから転じて薫は死のメタファーだと考えた。すると、その芳香に憧れる匂宮は、死に惹かれる現世の人間、つまり生のメタファーと考えられる。「薫と匂宮に取り合われて生死を彷徨う浮舟」というのは生死という観点でダブルミーニングのようにも思える。

 感情表現

 宇治十帖以前の源氏物語の男たちは、欲望のままに行動する人間が多いように感じる。光源氏を筆頭に、好きな女は手に入れるオラオラ男子が多い(怖い)。しかし、薫はその系列に明らかに属さない。モンスター童貞だからだ。(浮舟と契り済みではある)。彼は自分の欲望を抑え込み、自分でも自分の気持ちがわからないような印象を受ける。これは、道心が深いから自制心がある、というものではないだろう。というのも、彼は自分の出生に悩みを抱えており、人目を気にした振る舞いが多く見えるからだ。
 平安貴族は、人目をとにかく気にしていた。これは、周りに常に女房などおつきのものがいるといったような生活様式や、ほとんどが親戚という貴族社会の構造が関係していると思われる。人目を気にするあまり、平安時代では感情表現の抑圧が進んでいったのではないか。となると、薫は当時にとっての「現代っ子」だった可能性がある。
 この薫の現代っ子ぶりは、浮舟にも伝播しているように感じる。浮舟は、お人形として扱われており、中の君や薫から本当に大切にされているとは言い難い。本人の自我もかなり薄く、身分の高い人への憧れから、自我を他に依存させているような印象がある。担当範囲中の、浮舟が女房を窘める場面は、先日の発表であった、中の君が童を責める女房を窘める場面と似ているが、浮舟のそれは、中の君のような身分の高い人の模倣であり、また、自らの誇りのためではなく、中の君の機嫌を損ねることを恐れる消極的な振る舞いになっている。大塚ひかりは『感情を出せない源氏の人びと』*5で、薫が無神経なことを言うことで、ただでさえ身分の高い人に委縮していた浮舟をさらに無口にさせ、自我を奪っっていったということを述べている。ここに、無感情な現代っ子貴族の誕生プロセスが見て取れる。また、先ほど述べた薫の人形愛からも、浮舟が無感情になっていく方が彼にとって都合がよいことが分かる。
 今後、浮舟は、匂宮という若かりし頃の光源氏を彷彿とさせる感情豊かな人物に惹かれていったり、横川の僧津と出会って外の世界に出てから感情豊かになったり、と成長していく。

薫きゅん

 結論としては、薫の持つ意味、特徴は、当時の浄土信仰や官能を刺激する芳香と、貴族社会の作り出した闇である無感情の二つにあると感じる。薫がこういう属性を付与されて登場しているのは、当時の社会を風刺しているとも考えられる。極楽浄土に憧れ、感情を封印する、いわば死にゆく現代っ子を描き、浮舟というヒロインがそこから脱却する物語を構成することで、光源氏の物語と対になるような形で社会に物申すことができた作品と解釈できるのでは。
 
【注】
*1川上潤『源氏物語の鑑賞と基礎知識 浮舟』(至文堂、1999年)
*2阿部秋生他校注『新編日本古典文学全集 源氏物語⑥』(小学館、1982~1999年)
*3柳井滋他校注『新日本古典文学大系源氏物語⑤』(岩波書店、1993年)
*4神田龍身「薫と大君――不能的愛の快楽」『源氏物語=性の迷宮』(講談社 2001年)頁90
*5大塚ひかり「宇治十帖の憂鬱」『感情を出せない源氏の人びと―日本人の感情表現の歴史』(毎日新聞社、2000年)
 
【参考文献】
・藤原克己他『源氏物語 におう、よそおう、いのる』(ウェッジ 2008年)
・三田村雅子他「身体が匂うということ」『薫りの源氏物語』(翰林書房 2008年)
 




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