文舵、練習問題⑨〈方向性や癖をつけて語る〉問1
問1:A&B
この課題の目的は、物語を綴りながらふたりの登場人物を会話文だけで提示することだ。
一〜ニページ、会話文だけで執筆すること。
脚本のように執筆し、登場人物名としてAとBを用いること。ト書きは不要。登場人物を描写する地の文も要らない。
「お久しぶりです」
「おー、久しぶり、何年ぶり?」
「いやー、けっこうですよね」
「もう十年くらい経ってるんじゃない」
「はあ」
「座って座って、そこそこ、その椅子、そう。メール見たよ。小説も読ませてもらった」
「あ、はい」
「いやあ、すごく良かった」
「ありがとうございます」
「モデルにする許可だよね? そんなのいいよ。本当に僕そっくりでびっくりした」
「ありがとうございます。大学時代を書いていて、やっぱり指導教員のBさんは絶対に必要だなってなりまして、秋津さんとして登場していただきました」
「そっかそっか。しかしかなり長いね。中学から高校、大学まで、あんな風に長い時間をじっくり描くの大変だったでしょ」
「はい。最初は智仁って、あの高校時代に出てくる登場人物、あれもモデルがいるんですけど、彼を描きたくって始めたんです。で、高校時代が終わって、でも全然小説が終わんなくて、それで大学時代も書きました」
「へぇー、最初は大学時代書くつもりなかったんだ」
「そうなんです。小説の流れに身を任せていたら、自然とああなったって感じです。」
「じゃあ、ラストで柴さんと対話するのも最初は考えてなかったの?」
「はい。全く考えてなくて、というかあの最後の店、新宿にあったローリングストーンって店がモデルなんですけど、あの店を出すことも最初はどうしようかって感じで。でも、最後の方書いていくうちにストーンの廊下で二人で話しているイメージが浮かんできて、ああしました」
「それは素晴らしいね。無理やり書くんじゃなくて、小説が求めるものに応じていったってことだろ。もう小説家だね」
「いや、そんな」
「照れることないよ。あれだけのもの書いたんだから。でも、ごめん。ひとついいかな。大したことじゃないんだけど、僕の趣味からすると、あの小説ってすこし内面描写が多すぎない? 私小説だから当然なのかもしれないけど」
「いや、僕としては私小説とは思ってないんですよ。自伝的な小説だと思ってます」
「どう違うの?」
「私小説って作者自身が発する、自分を見てくれってバイアスが常にあると思うんですよ。自分に陶酔しきってる感じというか。でも、僕のは物理学者を目指す凡庸な人物を主人公にすることで、手の届かない高い目標を目指してしまう人物をモデル化して、ひとつの典型として普遍的な物語を書いたつもりなんですよね」
「なるほど言ってることはわかる。わかるけどねー、どうかな。似たり寄ったりかな、言っちゃ悪いけど。なんていってもやっぱり人物の内面を延々と描くわけで、僕としてはうげーってなっちゃう。そこまで人間に興味がないんだよね。それとひとつガッカリしたことがあって、素晴らしい小説だとは思うんだけど、人間ばっか追ってて数学や物理学の奥深さ、美しさ、それが伝わってこない。あれじゃー単なる人間ドラマで、君がハバードモデルの強磁性で発見した時の喜びが全然わからないよ」
「そこは苦しいところでした。でもしょうがないんですよ。ハバードモデルを理解してもらうにはまず量子力学についての最低限の知識が必要になります。量子力学を理解するためには当然力学や解析力学を理解していなければいけないし、そのためには微分積分くらいはできないといけない。微分積分を理解するにはさらに基本的な数学の知識が必要になる、といった具合なんです。小説は誰にでもわかる言葉で書かなければならないから、そういう知識の積み重ねを前提とすることは無理があるんですよ。それに数式が使えないことも問題です。小説って日本じゃ縦書きじゃないですか。だから、簡単な式なら僕の小説の序盤に出てきたみたいに出せるんですけど、複雑な、それこそハバードモデルのハミルトニアンなんかを書くことができないんですよ」
「Aさんが言ったことは僕にもわかる。その苦労もね。でも色々ツッコミどころがある。本当に数学や物理を小説で描けないのかな? 円城塔の『十二面体関係』って読んだことある? あとピンチョンの『エントロピー』とかさ。彼らは数学とか物理の法則をそのまま小説の構造に落とし込んでいる。だから可能なんだよ。できるんだよ、そういうことも」
「それはそういうことができる場合もあるかもしれませんけど、ハバードモデルでは――」
「ほらほら、そうやってすぐに無理だと決めつける。そういう態度がよくない。ハバードの強磁性だって、何とか小説の構造に落とし込む方法があるかもしれないじゃないか。最初っから諦めたらそれでお仕舞だよ。それにそう、Aさんのは素晴らしかったけど、物理とか数学が出てくるところを除けば割とオーソドックスな教養小説じゃない? そんなの200年以上前にゲーテがやってるわけ。いま小説を書くならもっと過去に書かれたことがない、新しいものを書かなきゃ意味がないだろ」
「意味がないっていうのは言い過ぎじゃ――」
「言い過ぎじゃない。そんなのスピン系で言ったらさ、Aモデルで相転移が起きます。だからちょっと摂動項を加えてスピン10個で数値計算したら、それでもスピンが揃いました、くらいのもんだろ」
「それはあまりにも――」
「いいかい。ノベルっていうのは新奇なものを意味するイタリア語のノヴェッラ(Novella)からきてるんだ。新しくない小説なんて小説じゃないんだよ。それにAさんには円城塔やピンチョンみたいな数学や物理の知識があるのに、なぜ彼らのように新しい領域を切り開こうとしないんだい?」
「Bさんの話を聞いてると、小説も物理みたいに当然のように進歩していくと思ってるようにきこえますけど、僕にはそうは思えないんですよ」
「それはAさんが人間中心主義だからだよ。人間から切り離して小説のテキストを眺めてごらん。そこで何が起こっているか。それは現象であって、そのテキストが小説であれば何らかの法則性が見出せるはずなんだ。勿論大概の小説には人間が出てくる。出てくるけど、それは思考したり、事件を起こしてくれたりする面白い駒の一つでしかない。そう割り切るんだ。そういう観点に立てば、小説も物理となんら変わらないんだよ。小説では現象が示され、その法則性は賢明な読者に見出されるのを待っているのさ」
「なんだかBさんの話を聞いてると自信がなくなってきました。僕が書いた小説も、僕が書く必要があったんだろうかって。他の誰かでも良かったんじゃないかって」
「おっ、わかってきたな。そうだよ、別にAさんじゃなくていいの。そこが重要なところさ。その人に固有のものなんて考えてもしょうがないんだ。特別な体験をした特別な自分なんて考え、ナルシシズムでしかない。そんなのはせいぜい高校で終わらせなきゃ。そうじゃなくて、新しい法則性を示す新しい現象を提示する、それが小説家の仕事で、そのためには一端人間の内面なんて捨て去るべきだと思うんだ」
「そうですね、確かに……。うーん、でも、あの、確かにって言っといて何なんですけど、やっぱり僕はおかしいと思います。物理現象とか物理法則は人がいなくてもあるし、人が発見しなくても、その法則に従って粛々と宇宙は動き続けるけど、小説って人が書かないとないんですよ。しかも生まれてすぐは書けなくて、二十年とか三十年生きて、その経験を糧にして書くんで、テキストが現象だといっても、その元になる現象がテキストの外に広がっている。決してテキストだけで閉じているわけじゃない。それに言語の問題もある。僕らは日本語を使って思考し、日本語で小説を書いている。日本語がわからない人にはそもそも僕の小説は読めない。そこも言語に関係なく理解できる物理とは違う。最後に読者の問題があります。読者はただ単にテキストを解釈する機械じゃない。それぞれ生きてきたバッググラウンドが違っていて、それぞれに好きな表現嫌いな表現、好きなテーマ嫌いなテーマがある。それぞれの読者がどう小説を受け取るかなんて作者にはわからない。作者がなにを意図して小説を書こうと、予想外の受け取られ方をすることがありうる。そしてそのことがもっとも重要なことではないでしょうか? 確かに僕の小説は教養小説です。それだけじゃないですが、そのつもりもあって僕は書きました。でもそれは僕がそう思っているだけです。別の誰かが読んだら全然別のことを思うかもしれない。それって凄いことだと思うんですよ。その読みが新しい小説を生み出すかもしれない。カフカはフローベールの『感情教育』が愛読書で、何度も何度も読み込んだそうです。僕には理解できない。なぜ『感情教育』なのか? まだ、あの様々な技巧が小説内に散りばめられた散文芸術である『ボヴァリー夫人』なら、少しはわかりますけど。でも、『感情教育』から『審判』や『城』が生み出されたのならば、僕の言っていることもあながち間違いではないと言えるのではないでしょうか?」
「そっか、君とは合わないね。僕は研究に戻る。グッドラック。ドアはちゃんと閉じといてくれ」
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