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17 原爆、安保、沖縄 青木真兵

『はだしのゲン』の衝撃

たぶん小学3年生か4年生のころだったと思う。道徳の時間に観た『はだしのゲン』のビデオで、原爆は僕の中で完全にトラウマになってしまった。
アニメーション映画『はだしのゲン』は太平洋戦争末期の1945年8月6日、広島に原爆が投下された後の数年間にわたる主人公、中岡ゲンとその家族・友人たちの生活を描いた漫画作品が原作である。観たことのある人は知っていると思うが、まず冒頭のシーンが衝撃的なのだ。

「観ない」という選択をした同級生もいたから、担任の先生は事前に注意換気してくれていたのだと思う。僕は大丈夫だろうと高を括っていたのが、完全に裏目に出た。
教室の左端にブラウン管のテレビがあり、その上の棚にビデオデッキが載っていたのを覚えている。僕はテレビに面した最前列、もしくは2列目くらいに座っていて、何も身構えていなかった。
それはデッキにビデオカセットが吸い込まれ、本編が始まって数分後のことだった。
何気ない日常が描かれたかと思うと、突然、空襲警報が鳴り響く。次の瞬間、画面に広がったのは、広島の街の惨状だった。原子爆弾が投下されたとき、その下で高熱の爆風に晒された人びとが、どうなってしまうのか。平凡な日常が一瞬にして地獄へと変わる様子が写実的に描かれていた。

この日のトラウマから、僕は空襲警報と同じサイレンが鳴る、夏の高校野球のテレビ中継が見られなくなった。そして日常を地獄へと変えた一瞬の光や「ピカ」という言葉にも、嫌な記憶がこびり付いた。
光嶋さんはルイス・カーンの光について書いていたけれど、実は僕が光から連想するのはこの『はだしのゲン』の恐ろしい光景だ。『はだしのゲン』に大きなインパクトを受けた人は多いのではないだろうか。それだけ戦争の悲惨さ、残酷さ、不条理さがまっすぐに伝わってくる、優れた作品だと思う。

[コミック版]『はだしのゲン 青麦ゲン登場の巻』中沢啓治作・絵、汐文社

2023年4月、広島市教育委員会が児童・生徒向けに作成している独自教材「ひろしま平和ノート」の改訂に伴い、小学3年生向けの教材から漫画『はだしのゲン』が削除されたというニュースを見た。
教育委員会によると、「『浪曲』や『池のコイを盗む』などの場面の背景理解に補足説明が必要で、時間がかかる」「漫画の一部では被爆の実相に迫りにくい」などの指摘を受けた措置だという。歴史教育とはほぼすべてが「背景理解」だといっても良い。つまり、それに時間がかかるために削除するということは、その時代の歴史など知る必要がないと言っているに等しい。
この「措置」は十分、歴史修正に値する行為だと思うし、僕に言わせれば「そこ(削除されたところ)が一番いいところ」だ。幼い僕の脳と心に衝撃とともに戦争の本質を植え付けてくれた作品へのアクセスが閉ざされてしまうことを、残念に思った。

神話を信じ続けるアメリカ

改めて、歴史的事実について確認しよう。原子爆弾(原爆)は太平洋戦争最末期の1945年8月6日に広島に、9日に長崎に投下され、その年末までに広島でおよそ14万人、長崎でおよそ7万人が亡くなった。
原爆はもともと日本への使用を想定して開発されたわけではなく、ナチスドイツの原爆開発を恐れたアインシュタインらがアメリカのルーズベルト大統領に研究を進言し、計画が開始された。一般的には原爆が完成する前にドイツが降伏したため日本に投下されたとされているが、平和学を研究する木村朗とアメリカ史研究者の高橋博子によると、日本への投下はドイツが降伏する1945年5月7日以前、1943年5月5日に決定していたという。

このとき(筆者註:1943年5月5日)検討されたのは、当時日本の基地が置かれていたカロリン諸島のトラック島です。ここに集結している日本艦隊が投下先の候補とされました。当時は、原爆が完成したとしてもどれくらいの確率で狙い通りに爆発するのかわからず、不発のリスクもあることから海への投下が適当だろうと考えられました。もし不発でも、日本軍に原爆をすぐに発見されないようにするためです。
広島、長崎が候補として挙がるのは、1945年4月27日に開かれた目標選定委員会においてです。(中略)
4月27日の第一回目標選定委員会では17都市が候補として挙げられました。広島、長崎の他に、東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、熊本市、福岡市、佐世保市が含まれます。5月10日から11日かけて第二回目標選定委員会が開かれ、京都、広島、横浜、小倉、新潟の五カ所に絞られました。優先順位は京都、広島が「AA」で最も高く、次いで横浜と小倉が「A」、その下が新潟で「B」でした。

木村朗+高橋博子『核の戦後史 Q &Aで学ぶ原爆・原発・被ばくの真実』
創元社、2016年、90-91頁

最終的に原爆の投下目標が広島と長崎になったのは、当日の偶然もあってのことだ。9日の朝、小倉へ飛来したB29は投下目標が目視できず、そのまま長崎へと飛び原子爆弾を投下したからである。原爆投下の目的は日本に対して心理的な影響を与えるという軍事的な目的に加えて、戦後の国際秩序を念頭においたソビエト連邦に対するデモンストレーションでもあったという指摘もある。
しかし重要なことは、原爆投下のおかげでこの悲惨な戦争が終わったと、アメリカが未だにこの行為を正当化していることである。再び『核の戦後史』から引用しよう。

原爆問題について、まず確認しておきたいのは、アメリカは過去70年間、広島、長崎へ原爆を投下した行為を、一度も公式に謝罪したことがないという点です。「核のない世界」を宣言して(宣言しただけで)ノーベル平和賞を受賞したオバマ大統領を含めて、誰一人、「原爆投下は誤りであった」と語ったことはありません。それどころか、「原爆投下は何百万もの米国民の命を救った」(ブッシュ・シニア大統領、1991年)、「トルーマン大統領が下した原爆投下の決断は正しかった」(クリントン大統領、1995年)と発言しているように、原爆投下は(戦争を終結させたので)正しかった、と言いつづけているのです。(中略)
私の考えはこうです。
原爆の使用が戦争の終結をもたらし、米軍を中心とする連合国軍兵士だけでなく、日本人も含めた多くの命を救ったということが事実ではなくて神話であることについては、多くの歴史家の意見が一致している。さらに言えば、原爆投下で終戦が早まったのではなく、むしろ原爆の開発と投下のために戦争は意図的に引き延ばされ、その結果、犠牲者の数も増えたというのが事実である。

同上、17-19頁

「核の世紀」を生きるぼくら

原爆によって太平洋戦争が集結したことは神話であって事実でないことは言を俟たない。むしろ、原爆投下によって本格的に「核の世紀」が始まったといえる。
しかし『はだしのゲン』を観て原爆や戦争の恐怖が染み付いていたはずの僕も、日本各地に原子力発電所が存在するという問題をまったく考えずに暮らしていた。1986年4月に起こったチェルノブイリ原子力発電所の事故も、当時3歳と幼かったこともあり、どこか他人事だと思っていた。原発ではないが、1999年9月に発生した茨城県東海村のJCO臨界事故では、亡くなった方もいるし、多くの方が被ばくした。それにもかかわらず、日本国内のどこにどれくらい原発があるのか、なぜつくられ、地域にどのような影響をもたらしているのかについて無関心だったことが、今となっては恥ずかしい。

チェルノブイリ原発事故後、打ち捨てられたウクライナの民家(©︎slawojar 小山)

2011年3月11日に起きた東日本大震災によって、「原発」の問題は再び注目の的になった。福島第一原発はどうなってしまうのか。メルトダウンを起こしているのか、起こしているとしたらどのような影響があるのか。当時Twitterのタイムラインばかり気にしていたのを覚えている。その危険性の高さとは裏腹に、正しい情報が発信されているように思えなかったからだ。そんなことがなぜわかるのかと言われればそれまでだが、そんな気がしたのだ。どうやら現行の経済システムを変更しなくて済むように、人びとが正確な状況判断をするのに必要な情報が隠されている、と。

チェルノブイリ原発事故でも情報公開の遅れが、犠牲者数の拡大に結びついたし、その後の政府の対応によってソ連の崩壊が早まったとも言われている。
3.11をめぐる政府やマスメディアの情報発信のあり方は、明らかに僕のメディア不信を強めた。あまり直接的とは言えないものの、自前のメディアを持つことの重要性に気がつき、オムライスラヂオを始めるきっかけにもなった。当時はテレビや新聞がスポンサーを配慮して報道していないのだと思っていた。しかしその後、作家・矢部宏治の著書を通じて、問題はずっと根深いことを知ることになる。

3.11福島原発事故が起きたあと、「原子力村」という言葉をよく耳にするようになりました。ひとことで言うと、電力会社や原発メーカー、官僚、東大教授、マスコミなどが一体となってつくる「原発推進派」の利益共同体のことです。(中略)
こうした原子力村の構造があきらかになったことは、戦後日本の謎を解くための大きなカギとなりました。というのはこの原子力村は、「日米安保村」というそれよりはるかに大きな村の一部であり、相似形をしている。ですからこの原子力村の構造がわかれば、日米安保村の構造も、おおよその見当がつくわけです。
ではその「日米安保村」、略して「安保村」とはなにか。
簡単に言うとそれは、「日米安保推進派」の利益共同体のことです。その基本構造は原子力村とまったく同じで、財界や官僚、学界や大手マスコミが一体となって、安保推進派にとって都合のいい情報だけを広め、反対派の意見は弾圧する言論カルテルとして機能しています。

矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』講談社α文庫、154-156頁

日本とアメリカの交点、沖縄

原発の問題は日米安保に通ずるという。ちなみに日米安保とは「日本とアメリカの安全保障」の略である。矢部は原発をめぐる日本とアメリカの関係と軍事上の関係は構造的に似ていると述べている。そしてこの背景には太平洋戦争における日本の敗戦と、戦後の国際秩序における日本の立ち位置が深くかかわっている。
両者の交点には沖縄がある。太平洋戦争末期、日本軍は本土を守るため、沖縄になるべく米軍をひきとめて時間をかせぐ「持久戦」の作戦をたてた。その結果、日本側は沖縄出身者以外の兵士も含め、推計で18万人以上が亡くなったといわれている。哲学者の高橋哲哉は沖縄のこのときの状況について、以下のように記している。

1945年の3月末から約3か月戦闘が続いたのですが、日本軍は「軍民一体」の名のもとに民間人(女性、子どもを含む)を総動員し、その結果、県民の4人に1人が戦死するという稀に見る悲惨な結果となりました。一家全滅というケースも少なくありませんでした。
沖縄戦でのこうした犠牲は、日本における沖縄差別を顕にしたものでもあります。沖縄戦を一般に「捨て石作戦」と呼ぶゆえんです。
1945年といえば、日本の敗戦は必至の状況でした。そんななかで当時の日本の指導層が恐れたのは戦争に負けることだけではなく、その結果、天皇の戦争責任が追及され、天皇制が崩壊してしまうことでした。

高橋哲哉『沖縄について私たちが知っておきたいこと』ちくまプリマー新書、2024年、31-32頁

ここからわかるのは、日本が占領下にある時期、占領軍トップのマッカーサーと昭和天皇が、憲法9条で非武装国家となった日本の防衛のために、沖縄を米軍の軍事要塞にする必要があるという点で意見が一致していたということです。沖縄が「平和憲法」とセットで本土防衛のために犠牲にされるという構造が、ここにあることは否定できないでしょう。そしてこの構造は、日米が講和条約を結んで占領が終結してからも、今日まで一瞬も途切れることなく続くことになるのです。

同上、50頁

「アメリカ」という補助線

僕はこのリレー・エッセイの第1便で、「自分の人生にアメリカは関係がないと思っていた」と書いた。まずそのこと自体、自分の国が依って立つ仕組みをまったく知らなかったことの証左だし、その仕組みが沖縄をはじめとする多大な犠牲の上に成り立っていることをまったく考えていなかったことを顕にするものだった。このリレーエッセイを通じて明らかになり、恥ずかしい限りだ。

2024年1月にうるま市浜比嘉島にある書店「本と商い ある日、」を訪ねた。沖縄に行くのは大学生以来だったが、現在の日本や沖縄、僕自身の状況や関心を踏まえているからだろう、当時とまったく印象の異なる沖縄がそこにはあった。
以前書いたように、大学時代の旅では戦争の史跡を回った。その悲惨さに頭を打たれたような衝撃を受け、心は重かった。今回は戦跡めぐりはしなかったが、沖縄が日本でも中国でもアメリカでもない唯一無二の場所だという思いを強く抱いた。普天間から辺野古への米軍基地移設に関して、2013年の辺野古埋め立てをめぐる県民投票の結果が日米両政府に顧みられなかったことに、大きなショックを受けていたからかもしれない。

食文化、映画や音楽、政治経済を含め、日本にとってアメリカ文化はローカルカルチャーというよりも、グローバルカルチャーだ。特にビジネスの文脈においては、好むと好まざるとに限らず流入し続ける、それがアメリカ文化だ。しかしそれはあくまで本土にとってのアメリカである。
沖縄にとってのアメリカは、非常にローカルなものだ。在日米軍基地の約7割が存在する沖縄の人たちの生活には、常に「アメリカ」が複雑に絡み合っている。

周囲を飛行場の柵に囲まれた佐喜眞美術館の階段から見える普天間飛行場

僕の中のアメリカは、「自由と民主主義」を信じ、不正に対して声を上げる市民社会の代表といったグローバルな価値を有する国である一方で、人種差別が横行し、罪のない人びとの上に爆弾を落とし虐殺してきた国でもある。あらゆる物事には両面があるとわかっていても、僕たちにはどうしても自分にとって都合の良い側面しか見ようとしない傾向がある。
本エッセイで書いてきたように、僕にとって「アメリカ」は、近過ぎず遠過ぎない「他者」だ。他者の姿を通じて自分たちのありようは明確になる。そういう意味で、アメリカは自分や自分のいる社会の状況を理解するための、補助線のようなものだという気がしている。見通しが立たない社会に生きる僕たちをかんじがらめにする糸も、アメリカをキーワードにすると解け、人類の理念と現実に対する解像度が上がってくる。

果たしてアメリカは、グローバルな価値を保持する国であり続けるのか。それとも自らの事情を優先する、一ローカル国となっていくのか。未来のことはわかりかねるけれども、僕たちは他者を通じて自分たちの社会をより良いものにしていく作業をやめてはならないし、読者の方々がこのリレーエッセイからその種を受け取ってもらえたなら本望である。

〈プロフィール〉
青木真兵
(あおき・しんぺい)
1983年生まれ、埼玉県浦和市に育つ。「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」キュレーター。古代地中海史(フェニキア・カルタゴ)研究者。博士(文学)。社会福祉士。2014年より実験的ネットラジオ「オムライスラヂオ」の配信をライフワークとしている。16年より奈良県東吉野村に移住し自宅を私設図書館として開きつつ、現在はユース世代への支援事業に従事しながら執筆活動などを行なっている。著書に『手づくりのアジール─土着の知が生まれるところ』(晶文社)、妻・青木海青子との共著『彼岸の図書館─ぼくたちの「移住」のかたち』(夕書房)、『山學ノオト』シリーズ(エイチアンドエスカンパニー)、光嶋裕介との共著『つくる人になるために 若き建築家と思想家の往復書簡』(灯光舎)などがある。新刊『武器としての土着思考--僕たちが「資本の原理」から逃れて「移住との格闘」に希望を見出した理由』(東洋経済新報社)が6月中旬、発売予定。

◉この連載は、白岩英樹さん(アメリカ文学者)、光嶋裕介さん(建築家)、青木真兵さん(歴史家・人文系私設図書館ルチャ・リブロキュレーター)によるリレー企画です。次のバトンが誰に渡るのか、どうぞお楽しみに!
◉お3方が出会うきっかけとなったこちらの本も、ぜひあわせてお読みください。

◉アメリカ開拓時代からの歴史や人々の暮らしの実際がもっと知りたい方は、こちらもぜひ!

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