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【私訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』(5)

『シモーヌ・ヴェイユとの対話』
    ジョゼフ=マリー・ペラン 著
            関野哲也 訳

訳者より
本稿は、Josephe-Marie Perrin, « Mon dialogue avec Simone Weil » フランス語原文からの邦訳です。
ジョゼフ=マリー・ペラン神父は、シモーヌ・ヴェイユの友人の一人であり、彼女が洗礼を受けるか否かを熟考するに際しての対話相手でした。それゆえに、私たちが生前のヴェイユを知るうえで、ペラン神父は欠くことのできない第一証言者です。
訳出に際して、底本として以下を用いました。
Josephe-Marie Perrin, « Mon dialogue avec Simone Weil », nouvelle cité RENCONTRES, 1989.

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第1部

第4章 証言の真価 ー 真実か幻想か ー

われわれは、このような体験、つまりすべての神秘家の体験、そして特にシモーヌ・ヴェイユの体験の信憑性についてよく考えねばならない。私は、彼女がどれほどこの問いに身を投じていたかを知らなかったけれども、私たちの対話において頻繁に話された主題であるだけに、われわれとしてもぜひとも考えてみなければならない。

神秘家たちの置かれた文化や宗教は多様であるにもかかわらず、彼、彼女らの魅力とその一致点に触発されて、ベルクソンはその証言のうちに神の認識へ至る唯一の道を見出した。ベルクソンの『道徳と宗教の二つの源泉』におけるこの考えは、当時、この領域における類似したテーマでの議論に供された。

シモーヌ・ヴェイユはベルクソンの哲学をまったく好まず、『創造的進化』における中心的な考えに対して激しく異議を唱えていた。数ヶ月後に彼女は、『根をもつこと』(1943年春に執筆)において、『創造的進化』を強く批判することになる。しかしながら、彼女は神秘家たちに関して[ベルクソンと]同様の結論に至っている。

この超越の体験という表現は矛盾しているように思われる。しかし、超越は接触することによってしか知りえない。なぜなら、われわれの能力では超越を作り出すことはできないからだ。

(『重力と恩寵』)

他の箇所で、彼女はこの主張の理由を説明している。それは経験的存在論的な証明である。

この上昇の原理を私の内には有していない。天まで大気の中を上ることはできない。それは唯一、私よりも優れたものへ思考を方向づけることによってのみ、このものが私を高みへと引き上げる。もし私が実際に引き上げられたならば、このものは現実のものである。想像によるいかなる完全性も、1ミリさえ私を高みへと引き上げない。なぜなら、想像による完全性は、必然的にそれを想像している私のいる位置にあるからである。それ以上でも、それ以下でもない。

(『前掲書』)

同じように、われわれの考察はまず神秘家の意識にかかわるものでなければならないのだろうか。神秘家の体験はいかなるものであろうか。どのような明白さと確実性を神秘家は有しているのだろうか。ここで、シモーヌ・ヴェイユの場合にかんしては、われわれは困惑せざるをえない。『霊的自叙伝』(『神を待ちのぞむ』手紙4)のなかにある彼女の手紙の一節をもし理解できないならば、われわれは途方に暮れるだろう。彼女は書いている。

1940年(つまり彼女の大いなる体験の一年以上あと)、私は『バガヴァッド・ギーター』を読みました。特筆すべきことは、まるでキリスト教的な響きをともなって神の化身の口から発せられた美しい言葉を読むと、一篇の美しい詩を賛美するのとはまったく異なった仕方で、否応なしに賛美するのとも異なり、われわれは宗教的な真理の恩恵を受けていると強く感じます。

(『神を待ちのぞむ』手紙4)

では、彼女の確信はどこにあるのだろうか。このことをしっかりと理解しなくてはならない。[引用した]この言葉は、宗教的な信仰に、そしてまったき確信にかかわっている。それは、キリストのうちにおける神との「接触」以来 —— それは「実際の現前」であり、「人間より以上の、より現実的な、生身の人間よりもさらに確かな現前」を体験して以来 —— 彼女のなかに宿った確信である。同様のことを、彼女はジョー・ブスケへの手紙にも書いている。

神の行為について、神秘家に確信を与えるのは神自身である。それは明らかな行為、ひとりの人間のうちにおける言表できない仕方での、より私的な行為である。意識されることと体験されることは各人の秘密であり、もしそれが各人にとって疑う余地のないことならば、有無を言わさずもっとも自明なことである。それは、各人がその体験を自分に語り聞かせるためになす努力以前のことがらなのである。

内的世界において自分自身に語り聞かせる言葉は、口語でも文章語でも、ただでさえ過剰になりうる。それを他者に伝達することが問題になったとき、何が起こるだろうか。おそらく、彼女ひとりにとっては十分であったものが、伝達するとなると困難が生じるのだ。それは、この主題への後退りと慎みが、神の真実性を考慮するうえでのよき印であることを人に理解させるための困難である。人は、外側から汚されてはならない意識、また理想的に言表することはできない意識を有している。彼女は自身に語り聞かせるのではなく、そのことを考察していた。彼女は書いている。

多くの人々は自身のうちの愛徳を貶める。なぜなら彼らは、魂のうちには大き過ぎたり、よく見え過ぎたりするような仕方で愛徳を有したがるからだ。父なる神は秘密のうちにしかおられない。愛は慎みなくしてありえない。真の信仰は、それ自身に対してさえも極めて目立たないことを含意している。信仰とは、神とわれわれの秘密である。そこには、われわれ自身の居場所はほとんどどこにもない‥‥‥

(『神を待ちのぞむ』「神への暗々裡の愛の諸形態」)

この慎みの態度こそ、神の恩寵が実際にまた私的に経験されたことを示している。彼女の場合、そのことが際立っている。彼女は両親にもポルトガルの夜の出来事を話していない。さらには、アッシジの礼拝堂で見た幻視について、友人のポステルナクにさえ。また、詩「愛」が彼女にもたらしたとてつもない意味について、シモーヌ・ペトルマンにさえ。さらに後年、「主の祈り」を見出したことをチボンにさえ、彼女は一言も話していない。そして、彼女が意中を記したカイエ[ノート]にさえも書かれていないのだ。彼女は私に書いている。

出発するということがなければ、私のことをお話しすることはなかったでしょう。早かれ遅かれ出発するのですから、私に起こりえる死を考えてみても、このことを話さないでおくのはありえないと思われるのです。と言いますのは、いずれにせよ、このことすべてについては、私が問題なのではないからです。神のみが問題なのです。そこにおいては、私はまったく取るに足りません。もし神のうちに誤りがあると仮定したならば、このことすべては誤って私のもとに降ってきたのだと私は考えるでしょう。

(『神を待ちのぞむ』手紙4)

彼女は上述の確信を得ていたと思われる。なぜなら、彼女は自身にもたらされた光について疑問を抱くことは決してなかったからである。したがって、彼女はこの邂逅の絶対的で思いがけない真新しさに最大限の重要性を認めている。彼女は私に書いている。

絶対的で思いがけない接触を私が作り上げることがないように、神は慈悲深くも私に神秘家の著述を読ませなかったのです。

(『前掲書』)

多くの場合、神秘家は使命を帯びている。途方もない恩寵がもたらされることにより、他者たちへの信頼とともに、神秘家の進取の気性と勇敢さを確固たるものにするようだ。他者たちは神秘家の確信を共有しなければならないのだが、彼の断言では十分ではない。どのような場合でもいつも印を求め、信憑性の根拠を求める。そこで、尽きることのない、また疑う余地のない単刀直入なキリストの言葉に立ち戻る。「その実で彼らを見分ける」(マタイ 7. 16)。自分自身についてであれ、他者についてであれ、良心にもとづいた行為がすべてを物語る。神に根ざしたものであったとしたら、その実もしかりである。真に父なる神の愛ならば、それは子らへの愛である。隣人愛はいつも最も確かな根拠と見なされる。アウグスティヌスは言う。「心に問いなさい。慈愛に満たされているならば、あなたに聖霊が宿っているのである」と。

ここで、彼女のなかに生じた、汲み尽くせず、やさしく、分けへだてのない共苦の感情の源を疑うことができるだろうか。どこまでも正義の女神を想起させる「勝者の野営地からの敗者の逃走」というホメロスの言葉は、すべての敗者、すべての不幸な者、すべての人生の敗北者に対する[彼女の]決定的な思いなしを、おそらく人に呼び覚ますことはないだろう。明らかに神によって育まれた心が、彼女なりの仕方でギリシアの詩人の表現を用いさせたのだ。

悲しみを説明して、彼女は私にこう書いている。

確信は魂の状態に影響されません。確信はつねに完全なる安心感のうちにあるのです。そこには、確信したことをもはや忘れてしまうという事態があるのみです。それは他者の不幸との接触です。信仰なき者たち、名もなき者たちもそうです。おそらくさらには、遠い過去の者たちも含まれます。この接触は私にとってひどく辛いものであり、まさに私の魂を切り裂くがゆえに、神の愛がしばしの間、私をほとんど何もできない状態にするのです。完全に何もできないとも言えます。自身のことが心配になるほどです。エルサレムの悪党どもを予見してキリストが涙を流したことを思い出し、私は少しばかり安心するのです。キリストが、共に苦しむこと[共苦]をお許しになると私は願っています。

(『神を待ちのぞむ』手紙6)

神の喜びはそれ自体も、共苦と一致するにせよ矛盾するにせよ、神的なものの表れの明白な印である。十分に人間的であるためには、神的でなければならない。神の愛を分ちあうためには、意識的に人間的でなければならない。この喜びについての彼女の言葉に、すべては引用できないが、再度耳を傾けたい。彼女が誤りと呼ぶもの、つまり失敗作としての彼女の良心を振り返りながら書いている。

それでもやはり、神の慈愛に満たされながら、私はすべての取り分を受け取ったと考えるのです。と言いますのは、この世においてすでに、私たちは神を愛する能力とともに、現実的で、永遠で、完全なる喜びを実際に抱くように、まったき確信において神を思い描く能力を受け取っているからです。この主題からすべての疑いを取り除くために、身体のベールをとおして私たちは高みから充足された永遠の予兆を受け取るのです。

(『神を待ちのぞむ』手紙6)

[人間に]愛された神のしあわせは、神の子のしあわせとなる。実際に善と接触することによってのみ、この種の喜びは説明可能である。しかし、この喜びと共苦のパラドクスは、いささかも人間には起因しない。人間のことがらにおいて冷酷さと卑小さを示すことよって神秘家を自称する者の振る舞いは、キリスト教的な知恵とはなんら関係なく、振る舞いそれ自体が正しさを証明しなければならないであろう。聖パウロはガラテヤ人への書簡で「霊の結ぶ実」(ガラテヤ書 5. 22-23)と書いている。そして、このような在り方が真に識別されるなら、神秘家にとっても、その他の者たちにとっても、そこに疑う余地のない真の印があるだろう。

この意味において、われわれの主題について彼女が1942年4月13日付でジョー・ブスケに宛てて書いている手紙は興味深く、耳を傾けるに値する。その日は彼女が、負傷して二十五年のあいだ寝たきりであるこの偉大な人物と初めて会った数日後である(私のことがその手紙のなかで言及されているので、ためらわずにこの手紙を引用する。と言うのも、神のことがらにおける彼女の現実主義について公にされることには何ら重要性はないからである)。彼女は書いている。

ほとんどの人間は、人や物が存在することの意味を読み取ろうとはしません。子どもの頃から私は、死ぬまでにそのことの完全なる認識を得ること以外に欲したことはありませんでした。あなたはこの種の認識に身を投じていらっしゃるようにわたしには思われます。ですから、この土地へ来て以来、私は、身近なひとりの人物を除いて、あなたの人生よりもつらい境遇の人に会ったことがないと考えております(余談ですが、その人物とはペラン神父という名のマルセイユのドミニコ会修道士です。神父はモンペリエの修道院長に任命されたところだと思います。もし神父がカルカッソンヌへ行く機会があれば、あなたは神父にお会いになるとよろしいかと思います)。この種の認識は要するに聖杯という主題に行きつきます。救霊予定者であるたただひとりだけが、もうひとりの他者に対して、こう問うことができます。「あなたはどこが苦しいのか。」そうして、問う者なしで、問われた者は生活に戻っていきます。彼は何年ものあいだ、好きなこととはほど遠く、呪われているという感情をさえ抱きながら、不幸のうちにさまようという暗夜を過ごさねばなりません。そして、それらをすべて抜け出ると、[問う者と]同じような問いかけをする力を得ていると同時に、生きた石[キリスト]は彼の所有物となっているのです。そして、彼は他者の苦しみを癒すのです。

私の目には、そこにこそ唯一正しい、すべての気構えの基盤があると映るのです。悪行は、物と人が存在するという現実を覆い隠してしまいます。物と人が存在するということを真に知るならば、悪行はまったく為すことのできない行為なのです。また逆に、物と人が存在するという完全なる認識は徳の完全なる実践を含みます。

(「ジョー・ブスケへの手紙」)

このような印こそ確かに客観的な証拠である。たとえわずかであっても、それを味わった者はもはや知らないとは言えない果実なのだ。しかしその果実は、外部の者にとっても印なのだろうか。そうであろう。なぜなら、[人間によって]創作されたいかなる根もその果実を生み出し、育てる力をもたない。しかし、ひとたびその印が問われたならば、人は「地を見つめて」はならず、否定的な考えのなかに閉じ込められてはならない。ひとつの確信に至ること、つまり神秘家の証言を証明することは、おそらく不可能である。それは彼ら神秘家の役割ではない。彼、彼女らはひとつの印であり、ひとつの呼びかけなのだ。求めていない者にとっては、神秘家は印であり、馬鹿げた振る舞いや役に立たない身振りのように見える。反対に、待ち構えていた者、人生を意味で満たし永遠なものにする道を求める者にとっては、進むべき方角を示す道なのだ。

真実と幻想を識別する問いは、彼女と私のあいだでよく話題になった。神の家の外、つまりこの世において探し求める者にとって、識別できる真性さが重要であるならば、父なる神をよろこばせようとする家の中の息子にとってはなおさらである。息子は、偶像や父なる神から隔たった誤った教理に魅惑されず、適切な美しい名称にもかかわらず、誤った道に迷わされることはない。

シモーヌ・ヴェイユは考察のなかで、目をくらませる瞬間を手放し、時間の経過を重視していた。彼女はカイエに書いている。チボンは『重力と恩寵』のなかでこの原則を引いている。

知性を働かせる方法は、見ることにある。現実と幻想を区別するためにこの方法を適用すること。見たものが確かでなければ、見つめたまま場所を変えてみる。すると、現実が現れる。人間の内面においては、時間が場所に取って替わる。時間とともにわれわれの内面は変化していく。同じものへ眼差しを向けたままにするならば、変化をとおして、最終的に幻想が消え、現実が現れる。注意は眼差しであり、執着ではないということが条件である。

(『重力と恩寵』)

心理学者はこのような基準の価値に重要性を認めるだろう。確かに、異常な頑固さや偏執狂的な強情さはあっても「揺れ動きかつ多様な」存在でもある人間のうちに、真理が時間の経過とともに姿を現す。識別の状態にあるためには、様々な基準をいつも合わせ持たねばならないけれども、硬化せず生き生きと開いた時間の経過が、通常は永遠の命の印なのだ。同様のことを使徒パウロがキリスト教最古の文書のなかですでに奨励している。霊の火を消さぬために、「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5. 21)

本章を閉じるにあたって(この汲み尽くせない主題に対して決着をつけることは、しかしながらせずに)、二つの反論が思い浮かぶ。ひとつ目は、無神論的形而上学の立場の人である。それは、単純にこの種の証言を受けつけず、完全な幻想と見なす。ふたつ目は逆に、熱心なカトリック信者である。それは、シモーヌ・ヴェイユの書いたものが含む明らかな誤りと不十分さを理由に、彼女の証言に懐疑的である。まず無神論者は、その論理と誠実さにおいて神は存在しないと考えるため、神に起因するすべてのものを拒否せざるをえないのは明らかである。しかしながらこの場合、非常に多様でかつ対立しつつも、神秘家たちの一致した体験を説明しなければならない。もし旅人たちが未踏の地で見たものを、自身でもそれを語る言葉を見つけられないまま、まったく同じような仕方で描写したとしても、彼らの証言を拒否する者たちは、それが幻想であることや彼らの[証言の]一致点について理由を説明できねばならない。神秘家たちの証言は、西欧言語(まずそれはセム諸族の言語)においてのみ語られているのではなく、世界中あらゆる場所で、あらゆる世紀において見られるものである。第二バチカン公会議における教会典範第二章の出だしの言葉は、国境なき普遍性を認める引用を含んでいる(註1)。

神との真の邂逅と、明らかな誤りや幻想とをどのように和解させるべきかわからない人たちに対しては、彼らに何と答えたらよいだろうか。まず彼らの問いは私の問いでもあり、私はその困難さを彼らと共有している。しかしまた、注目すべきは、彼らの問いが神秘の核心へとわれわれを連れ戻すことだ。超越者と、人間の条件に狭く限定され閉じ込められたわれわれ(つまり物質的、動物的な生命、無限の知性の解放が混ざり合い、互いに結びつき、ぶつかり合う場所としての受肉した霊)とのあいだにあり、そしてこれからもあり続けるであろう計り知れない不均衡をもういちどよく考えてみることが確かに重要である。さらには、われわれの応答が無償かつ十全の愛に達するうえで、われわれの自由が尊重されるようにとの無限の配慮をなす神の愛の慎み深さがある。『ロンドン論集』において、シモーヌ・ヴェイユは言っている。

神は不可能性を自身のために取っておく。唯一、不可能性こそ神にとって可能なのである。残りは、成長の法則にしたがわされ、時間の経過に制約され、誤りにさらされ、ごくわずかな量に常に制限された人間に委ねた。人間が、神の国に匹敵するものとして、種、ひと握りの穀粒、ひとつまみのパン種、カラシナの種、そして同様に真珠というわずかな実在しか見出せないとき、キリストはそのことをわれわれに知らせるのだ。

(『ロンドン論集』)

初代キリスト者による言葉のいくつかは、多くを語っている。すべての時間の主である永遠者[神]にとって、「もうすぐ」とはいかなる意味か。弟子たちは、近い将来にキリストの再臨を待ちわびる。しかし、生涯の終わりに至って、聖ペテロは書いている。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(ペテロの手紙二 3. 8)

ペテロを先頭に、使徒たちは普遍性への道を得心し、一歩一歩進むのみである。世界への布教ののち、聖霊降臨ののち、そして使徒たちが自分の言葉で語るに至るこの奇跡ののち、ペテロは律法の生垣を越えて、コルネリウスのもとへ行き彼を迎えるために、三度くり返された幻と外からの呼び声が必要であった。

ダマスカスへの途上、キリストご自身がサウロをとらえに来られた。彼は光に打たれ、目が見えなくなった。しかし、アナニアの助けを借りて、彼は秘跡にあずかる。すると、目が開き、この世のものが見えるようになった。人がこのような考察と他の同様な省察を、神秘家の研究や、彼・彼女らの使命と打ち明け話の理解に応用するならば、[そこに]進歩と模索を見て取り、誤りと不十分さを予見する準備ができるだろう。そして人は、存命の教皇と、世界に、また何世代にも渡って授けられた聖書に助けを求めることに喜びを見出す。

一点、指摘しておこう。識別(とわれわれが控えめに名づけるもの)は、最終的な計画について神のお考えをわれわれが知っていると信じていることから成り立っている。たとえば、キリストは人間たちの一体性を望んだ、とわれわれは学んだ。その一体性が輝かしいものであるからこそ、「世界」に認められたのだ。だが、われわれは正しくはその何を知っているのだろうか。神の言葉として理解しているものに、われわれ自身の考えを押しつけてはいないだろうか。とりわけ、[キリストの]神秘体としてのカトリック教会において、神が各人に割り当てている役割についてわれわれは何を知っているのだろうか。「神が常軌を逸していることは、人間の賢明さよりも賢明である。」そして、「未完成」という同じ理由で、神秘家もある人々にさらに耳を傾けられるだろう。シモーヌ・ヴェイユが「教会の敷居」と言うとき、教会の内にいる者以外は彼女の言葉に耳を傾ける者がいないか、誰が知りえるだろうか。これらの問いからわれわれは目を背けてはならないのであって、これらの問いがわれわれに証言と考察の完全な透明さを求めるのだ。

母親の言うことを酌みつつ、身体に気をつけてくれるようお願いしながら、母親へのかなり覚めた返答を手紙から引用できる。彼女は言う。

人が私の話を聞き、書いたものを読むとき、すべてに同意するのは注意が性急であることによってです。考えの一端が頭に浮かぶにつれて、心のなかでは断定的な仕方で決めているのです。「私はそれについては賛成だ」「私はそれについては賛成しない」「それは素晴らしい」「それは完全におかしい」(この最後の対句は私の上司のものです)。人はこう結論づけます。「それはとても興味深い」。そして、別のことへと移っていきます。人は疲れることを知らないのです。他に何を期待するというのでしょう。

(『ロンドン論集』1943年7月18日付の手紙)

さらに真剣に注意深く、われわれは彼女の話を聞くように促されているのではないだろうか。チボンが彼女への手紙で名づけたものが必要であろう。「われわれ一人ひとりの魂を愛で結びつけるこの誠実な試論」。

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註1 「実際に、すべての時代において、またすべての国において、神を畏れて、正しいことを行う者を、いかなる者であれよしとされる。」(使徒言行録 10. 35を参照)


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