【私訳】『シモーヌ・ヴェイユとの対話』(4)
『シモーヌ・ヴェイユとの対話』
ジョゼフ=マリー・ペラン 著
関野哲也 訳
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以下の「シモーヌ・ヴェイユにおける霊的体験の軌跡」は、訳者が作成したものです。参考資料として、冒頭に付します。読み飛ばしていただいても構いません。
第1部
第3章 大いなる天啓
唯一シモーヌ・ヴェイユの言葉(話されたもの、書かれたもの)をとおして、われわれは彼女の神秘的な体験を追うことができる。ところで、神を体験したことについて、彼女はアメリカへ向けて出発する間際まで沈黙を守っていた。出発に際して、彼女は手紙によって私にそのことを打ち明け、そして偉大な傷痍(しょうい)軍人・ジョー・ブスケにも手紙を書いている。
おそらく、彼女を理解するうえで、長く驚嘆すべきこの二つの手紙を互いに比較することほど重要なものは他にない。われわれの主題については、この二つの手紙がそのテクストである。私に宛てられた手紙(私はそれを点字にしてもらった)を何度も読み、考えるなかで、同日(1942年5月中旬)にジョー・ブスケに宛てられた手紙がもたらすもの、補うもの、つけ足すものを私はさらに理解できたように思う。
彼女はジョー・ブースケに書いている。
彼女が私に宛てた手紙は、本書の第3部に掲載する。
このテクスト[手紙]に何ごとかをわれわれはつけ加えることができるであろうか、もしくはつけ加えねばならないだろうか。シンプルに述べられていることを、そして言葉を超えたものをよりよく理解するために、われわれは何らかの言葉に頼るべきであろうか。おそらく、「キリストが降りてきて、私をとらえたのです」というこの言明に匹敵するものは他に何もないことは確かである。
彼女の言葉を注意深く省察する者にとって、その言葉は光彩を放つ。そしてその言葉を深く掘り下げつつ、われわれはその言葉の理解へと進むことができる。何よりも決して忘れてはならないことは、感覚も、想像も、この天啓のうちにどこにも居場所をもたないことである。それは霊的な交わりであり、その点においてのみ、われわれは彼女の言葉を深めることができる。
さらに、彼女へのこのキリストの降臨はまったく特徴的である。この点については後ほど立ち返らねばならない。それは、たとえばフロッサール(訳註1)の場合のように、不意の偶然ではない。もしくは、サウロ(訳註2)の場合のように、ダマスカスへの道の途上においてこの上なく強烈な印象を与えるという仕方でもない。彼女は身体のひどく激しい痛みに苦しんでいた。そしてその痛みにもかかわらず、彼女が名を与えたがらなかった何者かについて語る詩を懸命に唱える。彼女はお腹を空かした、どこかにパンがあることを知るよしもなく泣き叫ぶ子供である。「重要なことは、魂がお腹を空かして泣き叫ぶことである」(『神を待ちのぞむ』と彼女は書いている。
以下が、皆が私に望んでいた詩「愛(Love)」の翻訳である。
したがって、もしこう言えるならば、これが[愛との]邂逅(かいこう)の枠組である。シモーヌはそこに何を見出したのだろうか…… 彼女はその一瞬に、キリストのうちに、神は現実であり、人であり、愛であることを見出した。まず現実であり、それは言葉や観念ではない。彼女は神の問題を問うたことがなかったし、神について考えることもしなかった。しかし神はそこにいた。「人間よりも人間的な、確かな、現実的な現前として」(「ジョー・ブスケへの手紙」)。神は絶対者(l'Absolu)であり、「人と人との」関係を構築するあなた(Toi)であると彼女は述べている。「われわれにとって、欲求の対象は、唯一の、純粋な、絶対な、思いもよらない善でなければならない」(『秘跡論』)。
神は善、その通りである。しかし神は実に優しく愛する方でもある。特に、愛。神の優しさは他の何にもまさり、心を照らす。シモーヌの所へ到来し、彼女の言葉を自在にするために、キリストは三つの距離を取る。まず、意図的な否定の距離。それは敬意によるものであるが意図的なものである。次に、よく考えられた、と同時に、動機づけられた不可知論。最後に、キリストの苦しみの意識が彼女をへりくださせ、触れたものを彼女に疑わせる。キリストは激しい苦しみのうちにおいて彼女を愛し、その愛を示す。彼女はすべての不幸な人々の不幸を、いわばそのキリストの激しい苦しみのうちに置く。この最初の邂逅(かいこう)の後すぐ、彼女はキリストは神であること、救いに来た神であることを知る。
キリストにとらえられたシモーヌの体験について我々の考察をさらに推し進めるために、ひとつのテクストが非常に有用である。そのテクストとは「神への暗々裏な愛の諸形態」の最後の章である。その章題は「暗々裏な愛と明白は愛」と名づけられている。そのテクストは神への暗々裏な愛の諸形態の変形の研究のひとつとして著されている。しかし実際のところ、彼女は何を参照したのだろうか…… それは、彼女が記した彼女自身の体験であろう。したがって、われわれとしては注意深くこのテクストを研究すべきであると思う。
そのテクストにおいて、キリストとの邂逅(かいこう)によって引き起こされた魂のうちでの動揺を彼女は示している。彼女のうちにおいて、隣人、世界の美、宗教的実践、友情へと上昇するものは、下降する動きとなる。なぜなら、それらはキリストの眼差しと愛へ与(あずか)るものだからである。
このテクストの意味を彼女自身の体験に見出すうえでわずかに妨げになるものは、まばゆい邂逅(かいこう)の後、それがただ一度きりの体験であるとは思わずに彼女が再びお腹を空かせていたかどうかをわれわれが知るためのいかなる資料もないということであろう。—「ある日、彼は言った。行きなさい」 このことが正しいのならば、チボンが考えるように、「主の祈り」を見出す以前の1941年夏、サン・マルセルにおいて、彼女は彼にそれを打ち明けていたであろう。
「神への暗々裏な愛の諸形態」において、彼女は次のように述べている。
おそらく、凝り過ぎていると私を批判する向きもあろう。そうであれば、私は彼らに許しを乞いたい。しかし彼らが私の考えを理解してくるようにも願いたい。私は完全に正しくありたいと願っている。そして神秘家の生涯において比較的稀なこの証言が、「対象なくして待つこと」を理解する上で、重要であると私には思われるのである。
したがって、彼女にとってそれが起きたことがいかなる瞬間であろうと(最初の[キリストとの]邂逅、もしくはサン・マルセルでの[主の祈り]を暗唱した後)、神との邂逅を果たしたときに、彼女の[神への]愛は明白なものとなる。美は感覚的なものに充てられるだけに、神とは魂を魅了する美であると魂によって見出される。しかしここで、もうひとつ他の次元が問題となる。それは音やハーモニーよりもさらに豊かな静けさである。
この光のうちに、神の超越性による非人格的な性格を損なうことなしに、神は人として覚知される。また、神は「特に友人」である。彼女の対等を要求する「友情」という概念のゆえに、彼女はこの点を強調する。彼女は同じテクストにおいてこう言っている。
さらには、すべてが変化する。
彼女のこの表明の重要性をわれわれは理解できるだろう。
このテクストについて熟考することは、シモーヌ・ヴェイユ、彼女の体験の真価と彼女の抱く困難さをわれわれが理解するうえで、ますます重要であると私は思う。それぞれの神秘家は自身に言い聞かせ、そして他者へと自身の唯一の体験、人間を超えた体験を自身の概念と言葉によって語る。シモーヌ・ヴェイユにおいても同様である。彼女は自身が構築したプラトン的な体系、新ストア派的な体系において、自身の体験を表現する。そして、たとえ人がそれを受け入れたとしても、それはパスカルの語の意味で「精神の秩序」にとどまるものなのである。
彼女にとって「超自然的」とは、神によって創られたものであり、キリスト教的な言葉でよく言われるような、必ずしも神の生や恩寵へと至ることではない。したがって、彼女の生、彼女の無私無欲さ、彼女の隣人愛によって裏づけられた彼女の神秘体験、彼女の自我の滅却、神に背きたくないという強迫的な欲求は、その輝きを弱め彼女を懐疑的にさせる危険性のある根拠の乏しい考え方のうちに表明される。だが、われわれは正当に彼女に対して異を唱えることはできない。
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訳註1【アンドレ・フロッサール】
André Frossard(1915-1995)。フランスのジャーナリスト、エッセイスト。著書に « Dieu existe, je l'ai rencontré »(『神は存在する 私は神に出会った』)がある。
訳註2【サウロ】
サウロはイエスの弟子たちを探し回り、捕らえようとする。しかし、ダマスカスへの道の途上、突然、光に打たれ、主イエスの言葉を聞く。彼は回心し、後に使徒パウロとして知られるようになる(使徒言行録9 : 1-19)。
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第1部 第3章・了