<灯台紀行 旅日誌>2020年度版
<灯台紀行 旅日誌>2020年度版 愛知編#6
野間埼灯台撮影5
装備を整え、野間埼灯台の最終撮影に出発した。ちょっと大袈裟かな。今回は、カメラバックに三脚を装着した。というのも、夕景、さらには夜景の撮影に、三脚は必須なのだ。遅ればせながら、先ほど、灯台の根本にライトがあることに気づいた。気づくのが遅すぎるだろう!今日は、灯台がライトアップされる瞬間も撮ろうというわけだ。
まずは、道路を渡って広場に入り、灯台の正面に出た。太陽は、すでに灯台の頭の辺りにまで降下していた。しかし、まだまだ、光が強い。目に危険なので、ファインダーはほとんど見ないようにして、いわば、ほぼ<ノーファインダー>でシャッターを押した。いま思えば、カメラにも危険なのではないか!どうせ、モノにならない写真なんだ、今後は慎もう。その後は、左右の砂浜を行ったり来たりしながら、刻一刻と変化する、空の様子や、灯台の様子を写真におさめた。撮影二日目なので、気持ちに余裕があり、この時間帯、昨日はゆっくり撮れなかったポイントでじっくり撮った。
再度、広場に上がった時には、太陽はさらに下降し、灯台の胴体の真ん中あたりで、最後の輝きを見せていた。そろそろ陽が落ちるなと思った。地上の色も明らかに赤っぽくなり、落日が近づいている。と、先ほどから、目の端で気になっている点景がある。それは、若い女の子で、小さなコンデジを手に持って、浜を行ったり来たり、あるいは、例の幅の狭い防潮堤に登ったりして、陽が沈む位置を確認している。灯台を見に来たついでに写真を撮っているという感じでない。
画面に何度も何度も入り込んでしまうので、なんとはなしに観察していた。小柄でベージュのコートを着ていて、地味な感じだ。表情に少し影があるような気もする。見たところ、連れはいない。少し、心が動いた。まだ二十歳そこそこの女の子が、一人で夕陽を撮りに来た。余計なお世話だが、何か悲しいことでもあったのか、とついつい考えてしまう。
いつもの自分なら、話しかけることはしなかったろう。ただ、今回の旅は、なぜか気安い感じのおじさんになっていた。昨日も髭の濃い青年に話しかけたばかりだ。すれ違いざまに、サングラスを外して<夕日の沈む場所を探しているの>と声をかけた。少し警戒した目でじっと見られたが、<絆の鐘>の辺りに沈むよ、と言葉を続けた。さらに、昨日もそこで撮ったんだ、と言うと、彼女は目を輝かせて、写真を見せてください、と元気よく応じてきた。警戒心が解けたようだ。その後、五、六分立ち話をした。
いまさっき撮った、コンデジの写真も見せてくれた。アンダーな感じだ。本人もスマホの方がきれいに撮れる、と言っている。ちょっと考えて、コンデジを<夜景>モードにすることを教えた。ためしにと、彼女はすぐに、目の前の夕景を撮った。画像はスマホ並みに明るく、きれいになった。彼女の、驚いたような、うれしそうな声が聞こえた。
さらに<絆の鐘>付近の、落日ポイントまで連れて行き、ベストな構図を教えてあげた。あとで考えると、これは余計なお世話だった。おそらく、この時の彼女の心情は、<絆の鐘>とは正反対なものだったに違いないからだ。いや、これもおじさんの妄想だろう。そのあと<それじゃ、頑張って>と言って別れた。<ありがとうございました>と応じた彼女の表情が、少し明るくなったような気がした。
そうこうしているうちに、穏やかになった太陽が、水平線にかかりはじめた。と思ったが、なんだか様子が変だ。水平線近くに、雲がたなびいていて、太陽は、その雲の中に落下しつつある。昼間は雲一つない快晴だったのに、まいったな。完全な意味での日没は拝めない。昨日のような完璧な日没は、僥倖だったわけで、撮れてよかったと思った。
こうなった以上は、水平線に沈む太陽、いや違った、水平線近くの雲間に隠れる太陽に執着する必要もあるまい。価値があるのは、水平線にかかる、線香花の火の玉のような太陽なのだ。これも思い込みだな。ま、とにかく、<絆の鐘>付近からの写真はあきらめて、昨日は撮れなかった<ブルーアワー>の西の空を撮るべく、東側の浜へと移動した。
広場を通過する際、思いのほか人がいるのにちょっと驚いた。平日の月曜日、午後四時二十分頃、灯台の向こうの海に太陽が沈む、というそのことだけで、人間が集まってくる。日の出、日没が好きなのは、日本人特有のことなのか、いやそうでもなさそうだぞ。外国の写真にも、朝日や夕日が主題になっているものが多い。これは、500pxという、世界中のアマチュア写真家が投稿してくる画像サイトでも感じることだ。
この500pxには、自分も、数年前から投稿している。ただし、<花写真>のみである。というのも、とくに、風景写真はレベルが高くて、いまでも、とてもじゃないが太刀打ちできない。<花写真>に関して言えば、これは、まあ、互角に勝負できる。と自惚れているので、投稿を続けている。<太刀打ち>とか<勝負>とか言っているは、大袈裟だが、自分の写真が、あまりに見劣りするのは、気分がよくないものだ。
ちなみに、ポートレイトやヌードの写真なども、驚くほどレベルが高い。プロの予備軍といった感じだ。総体的に見て、<花写真>は、それらの写真に比べると、かなりレベルが落ちる。理由は、明瞭だ。カネになる写真か、そうでないかの違いだろう。風景、ポートレイト、ヌードは、500pxの、その先にプロの世界がある。だれが、どう考えたって、お花の写真でカネと名声が得られるとは思えないのだ。
話しを戻そう。東側の浜へ着いた後も、太陽は、水平線の少し上の雲間で、ぐずぐずしていた。だが、正確な意味での、日没ではないが、雰囲気的にはすでに日没で、急速に暗くなり始めた。空の様子は、下の方の雲が青灰色になり、その少し上の空が淡いオレンジ色、上に行くにしたがって、これまた淡い水色に諧調していく。その真ん中に、やや無表情の、多少しらけた感じで灯台が立っていた。
全体的には、もの静かな雰囲気で、何と言うか、日暮れの、敬虔な祈りの時間といった感じだった。もっとも、カップルが一組、それに、若い女の子の二人連れが、画面に入り込んでいた。ほとんど点景に近いから、さほど気にはならなかったが、それでも、やはり居ない方がいいに決まってる。もっとも、この値千金の時間、立ち去る様子もないわけで、致し方ないのだ。
あとは、カップルが、灯台の手前の大きな流木の上に、肩寄せあって座っている姿は、ほほえましいが、写真的には排除したいところだ。とはいえ、うまく消去できないかもしれない。少しじりじりしていたのかもしれない。このあと西側の浜へ移動して、灯台のライトアップに備えなければならないのだ。
カメラを装着したままの三脚を肩に担いだ。カップルが立ち去らないのを確認して、西側の浜に戻った。砂浜と岩場が、混在する場所に三脚を立てた。灯台からは、二十メートルくらい離れていただろうか。要するに、近すぎず、遠すぎずで、余裕をもって、灯台全体を、画面におさめられる位置取りだ。ファインダーを覗くと、画面の雰囲気は劇的に変化していた。全体がうす紫色。よくよく見ると、水平線近くの雲は青灰色で、その上の空がきれいなオレンジ色に染まっている。さらに、上に行くにしたがって、オレンジ色はうす紫色へと微妙に変化していく。美しい、というほかに、言葉が見当たらない。
その光景にうっとりしながら、いや、夢中になりながらも、リモートボタンを慎重に押し続けた。と、一瞬、ぱっと目の前が明るくなった。真白な灯台が、うす暗い海岸に浮かび上がった。ライトアップだ。してやったり、と思った。ほぼイメージしていた通りの光景が、目の前にあった。ただし、灯台の頭の方がやや暗い。この事態は想定していなかった。
そのあと、さらにあたりが暗くなり、うす紫の、敬虔な祈りの時間、<ブルーアワー>も終わった。その時はじめて、事態の深刻さ?に気づいた。どういうことなのか、つまり、灯台の胴体と頭とのつなぎ目?が、嵩張っていて、人間で言えば首の部分だろうか、下からのライトを遮っているのだ。結果、頭の方には光が当たらず、真っ暗なのだ。
その嵩張りは、ピエロが首のまわりにつけている蛇腹のひらひらしたものをイメージしていただきたいのだが、むろん、デザインとしては、一分の隙もない、灯台の、素晴らしい造形の一部だ。昼間は、所与のものとして、当たり前だった、この灯台の形が、下からのライトアップで、はからずも、頭のない、胴体が長くて白い、異様な建造物に見えてしまったわけだ。
さらに悪いことに、側面からの仰角、つまり、灯台を横から仰ぎ見ているので、頭の方が小さくなり、見えづらくなっていた。結果、灯台の命とでもいうべき、目からの光線も見えず、目=レンズが光っていることさえ、はっきり目視できなかった。
それでも一応、辺りが漆黒の闇になるまで、その場にとどまり、ライトアップされている灯台の写真を撮った。これは、写真的には、到底納得できるものではなかったが、状況証拠、というか記念写真として撮っておくべきだと思ったのだ。
無駄で、意味のない行為ではあったが、真っ暗になった砂浜でたった一人、額にへッドランプをつけ、灯台の夜間撮影をしている人間が、それほどバカにも思えなかった。自宅から400キロ離れた海岸で、誰にも知られず、灯台などを撮っていることが、わけもなく愉快だったからだ。人生の、時間の、自分というものの桎梏の中で、せめて、あがいてみせる、くらいのことはしているつもりだった。