叛通信Presents≪モロイ≫朗読 新改訂版#1-7.8<Samuel Beckett Molloy>原作:サミュエル ベケット 翻訳:安藤元雄 音楽:エリックサティ 朗読台本 朗読 写真:関根俊和

叛通信Presents≪モロイ≫朗読 新改訂版#1-7.8

原作:サミュエル ベケット 翻訳:安藤元雄 音楽:エリック サティ

朗読台本 朗読 写真:関根俊和
http://sekinetoshikazu.jp



備考
動画制作 2024年5月 動画公開 2024年8月19日
写真撮影地・埼玉県入間川
機材・ディマージュ7
期間・2002年

参照文献
<現代の世界文学 モロイ>訳者:三輪秀彦 集英社1969
<ベケット モロイ>訳者:安堂信也 白水社1969
<筑摩世界文学大系82 モロイ>訳者:安藤元雄 筑摩書房1982
<安藤元雄詩集集成>著者:安藤元雄 水声社2019
<無の表現 表現の無>著者:内田耕治 駿河台出版社1990
<無の研究>著者:内田耕治 牧歌舎2016
<モロイ サミュエルベケット>訳者:宇野邦一 河出書房新社2019

参考文書
<極私的モロイ論>改訂版

<モロイ>朗読に際して~ 関根俊和

#1 朗読の経緯
ベケット小説三部作の一作目<モロイ>は、世界的に有名な戯曲<ゴドーを待ちながら>の執筆前に書かれたものらしい。その経緯からして<ゴドー>を知る者なら、<モロイ>の中に、<ゴドー>のイメージの原型を数多く見つけることができるだろう。例えば、自殺についての考察は、エストラゴンの首吊りの失敗。息子を鎖で自分に結びつけて逃げ出さないようにするモランの夢想は、ポッツォとラッキーの姿に酷似している。もっとも、<ゴドー>の、ある意味では、謎めいたセリフに対して、<モロイ>の文体は、あくまでも明晰であり、小説的な、あるいは文飾的な矛盾や虚偽を、一切許さない強靭さを持つ。

<ゴドー>の成功により、ベケットは広く世に知られるようになった。だが、<ゴドー>の演劇的斬新性に比べて、<モロイ>は、いわば<反・小説>=<小説の革命>だった。当時<モロイ>はいかなる出版社からも出版を拒否されたようだ。<反・小説>が売れるはずもない。というか、編集者すら、<モロイ>の真意を理解できなかったようだ。もっとも、私事だが、四十五年ほど前、本屋で<モロイ>の背表紙を見て、読んでみようと思ったものの、ほとんどなにも理解できない。そのままそっと本棚に戻したのは、おそらく、自分だけではないはずだ。

<ゴドー>に関しては、真意は理解できないとしても、読む側の力量によって、それなりの了解が得られるような気がした。要するに、難解ではあるが、まだ読めたのである。が、<モロイ>はまったくと言っていいほど、取りつく島がなかった。

転機は二十五年ほど前に訪れた。経緯は、芝居の題材を探していたのだろうか、いまは詳しく思い出せないが、とにかく、<モロイ>を読んだ。それも、違った翻訳を三つ。その一つが<安藤元雄>訳だった。言葉が、すっと頭に入ってきて、流れた。これはいわば<モロイ>の独白=モノローグだ。ひょっとしたら、再構成して芝居にできるかもしれない、と思った。

若いころから演劇の<独白>は好きだったし、多少の経験もある。<モロイ>のフランス語や英語は知らないが、自分は日本語の<モロイ>、ありていに言えば、<安藤元雄のモロイ>に直感したわけだ。<モロイ>は、声に出して読むように書かれているし、そう読める。

体の不自由な浮浪者が、なにかぶつぶつ呟きながら、通り過ぎていく。あるいは、だぶだぶの厚手のオーバーを着て、じっと地下街の通路に佇んでいる。この東方の国にも<モロイ>は遍在している。興に乗って<モロイ>の最初の部分、とくに<母親の調教>を中心にして、抜粋台本を作ってみた。

もっとも、あの当時の自分には、それを上演する力量はなかったし、演劇化する確たるイメージも持っていなかった。劇化のイメージを深められず、<モロイ>の言葉を身体化できる俳優のあてもなく、そのうち、コピーされた抜粋台本は、ほかの反故台本と一緒に、本箱の下の方で眠りについてしまった。

また月日が流れた。2000年ころに眼病を患い、健康不安に陥った。それ以前から稽古をしていた<説経節>を断念した。<ささら>片手に、野外で大声を出すことが、もう体力的にも精神的にも無理だった。そのかわり、というか、ほとんど体力を使わない<モロイ>の朗読なら、できそうな気がした。いま思えば非常に安易だが、往生際が悪く、依然として演劇的表現にこだわっていた。

さいわい、以前、抜粋構成した<モロイ>の台本が手元にあった。途中で放り出して、未完ではあるが、とにかく、読みだした。それをビデオに撮影して、自宅で少し稽古をした。だが、どうにもこうにも<モロイ>の言葉が浮ついてしまい、絵空事になっている。<モロイ>との実存的な接点がぼやけたままだ。

<モロイ>のどこに、何に惹かれたのか、発語の根拠を探したが、結局、そんなものはどこにもない。おりしも、眼病は悪化し、一回目の<モロイ>朗読の企ては自然消滅した。

ちなみに、その時の稽古ビデオが残っている。だが、これはいくらなんでも、人様にお見せするわけにはいかない。下手でも、そこに言霊が宿っていればいい。そうではなくて、たんに下手なだけなのだ。

一方では、眼病の悪化により、失明の瀬戸際まで追いつめられていた。演劇から足を洗うか、と本気で考えざるを得なかった。

話がだいぶ脱線してきたが、この文書では、<モロイ>朗読の経緯、朗読の諸問題、<極私的モロイ論>を書くつもりでいる。

眼病による頻繁な眼発作、失明の不安、薬の副作用、それに、お袋の介護。辛く、苦しい日々が続いた。その中で、唯一、気持ちが和むのは、出始めたばかりのデジカメで、なじみの入間川の
風景を撮ることだった。

2000年頃に歩いた、四国札所を敷衍して、入間川中流域約50キロ、橋ごとに番号をつけて、その間を、例えば<入間川五番、昭代橋>として、毎日歩くことを自分に課した。四国巡礼は、中途半端なままで、まだ四分の一しか歩いていない。だから、これは、いわば疑似巡礼の意味を持っていた。実存的な危機に瀕して、こうしたことで、己の矜持を支えようとしたのだ。

とはいえ、健康上の問題で、この疑似巡礼はしばしば中断された。自分には、もう若さも健康もなく、それらのありがたさを、いやというほど思い知らされた。それでも、暗闇の世界に生きることになる前に、入間川の全風景を、この目に、この頭に焼き付けておきたいという思いは強かった。失明した後に、ゆっくり、それらの風景を楽しむことができるじゃないか、と。

入間川<疑似巡礼>は、いわば、希望とも呼べない、弱者の抵抗だった。この間、六、七年、河原をさまよい、寒風に吹かれ、炎天に焼かれながら、感傷的に、<モロイ>は俺だ、と思った。そして、河原に暮らす、ホームレスたちの姿を見るにつけ、<モロイ>の遍在を感じた。浮浪者=モロイであり、自分は、そうした意味では、精神の浮浪者=モロイだった。ろくに<モロイ>を読んでいないのに、こう思えたのは、極度の自己閉塞で、少しおかしくなっていたのかもしれない。いや、なにかにすがりたいと思っていた。不在者=<モロイ>と自分が、どこかで通底していると思いたかった。

ちなみに、ユーチューブ版<モロイ朗読>の背景に流れる画像は、このとき撮ったものである。いま残っているものだけでも、数万枚はあるだろう。もっとも、そのほとんどは反故写真で、まともなものはほとんどない。

というような経緯を知っていただければ、朗読の背景に、超スローで入れ替わっていく、拙い画像の意味が、少しは理解していただけるだろうか。もっとも、自分としては、朗読と画像に、ほとんど違和感はない。画像には<モロイ>との実存的な接点が刻印されている。

さて、また月日が流れた。眼病を発してから、五、六年で、幸いにも、それ以上の眼発作は起きなくなり、失明の不安は少し和らいだ。さらに五、六年たち、左眼の視力はほとんど失ったが、寛解し始めた。要するに、両眼とも、元には戻らないが、これ以上悪くなることはなくなった。
むろん、頼みの右目に発作が起きない保証はない。その時は、文字を読むことも、パソコン入力もできなくなる。外出はおろか、人の手を借りた生活になるだろう。だが、もう十年もたった。大丈夫だろう、という楽観論で押し切って、お袋を看取り、オヤジを看取り、なんと、十五年にも及ぶ介護生活を無事に?終了した。精神的にも、肉体的にも、時間的にも、言ってみれば、<モロイ朗読>の環境が整ったわけだ。

肩の荷が下りた。これまで、これといったこともしてこなかったが、いちおう、人間としての役目は果たしたと思った。父母の死の、ほぼその瞬間まで付き合ったのだ。<自由>を感じた。これからは、何でもできると思った。だが、よくよく考えてみると、やりたいことも、やるべきことも、何一つなかった。心は、すっからかんだった。

入間川疑似巡礼が発展的に解消され、興味は<花写真>の制作へと移っていた。だが、それも、こうなった以上、なんだかやる気になれない。後退戦にすぎないわけだ。車で日本全国、絶景巡りでもしようかな、だがそんなことが、果たして面白いのか。残り少ない人生を費やすに値することなのだろうか。一瞬感じた<自由>は霧散していった。

とはいえ、このまま、家にこもっていても仕方ない。介護生活の中で、思い描いていた<沖縄旅行>を敢行した。一人旅は、お袋の介護が始まった2000年以来、十五年ぶりだった。楽しいことは楽しかったが、それだけだ。依然として、心は空っぽのままだ。

そうだ、灯台巡りをしようという案が浮かんだ。日本全国の灯台を撮り歩くのも、一興だ。ためしにと、静岡辺りの灯台を二、三撮りに行った。だが、これも思ったほど面白くはなかった。どこからか、灯台なんか撮って、何になるんだという声が聞こえてきた。せっかく、生れて初めてといってもいいが、自由に動ける時間と金があるのに、それを活用できないで、自室で腐っている。

ふと思いついて、本棚に並んでいる、これまで演出した作品のVHSビデオを、ユーチューブに、保管がてらアップしてみようと思った。ビデオに記録されたものは10本ほどだが、これを動画処理して、ユーチューブにアップするには、初めてのこともあり、かなり手間取った。というか、かなり集中した時間を過ごすことができた。

要するに、何十年かぶりに、自分の演出した舞台を見て、いろいろ考えさせられた。以前は、拙さだけが目について、思い出すのも嫌になっていたが、それだけではないなと思った。頭が、久しぶりに働いたのだ。

それに、<ユーチューブ>という表現媒体について、これまた初めて、まじめに考えた。ユーチューバーになって金を稼ぐ、などというばかげた話は、ひとまず置いて、これまで特権的であった、映像=動画の配信を、素人が手軽にできるということに思い至った。驚くこともない、インターネットの効用だが、それが、文書、画像を越えて、動画にまで及んでいるということが重要だ。

しかも、それらを、スマホで誰でも、いつでも、好きな時に見ることができる。半世紀ほど前、自分が演劇に関わり始めた頃には、ほとんど想像できない世界が展開されている。才能や資本のない者たちの、世界へ向けての、他者へ向けての、自己表現の機会が増大し、その媒体の多様性と相互性は奇跡的といってもいい。老兵は去るのみ、か!だがしかし、このまま中途半端な感じで終わってしまうのは、じつに悔しいではないか、と頭の隅で思った。最後の最後に、自分というものを、もう一度突き出してもいいのではないか、と。

以下、下記のブログに続く
https://sekinetoshikazu.hatenadiary.org/

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