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神学生による随筆 「愛を伝える」~新型コロナ

新型コロナウイルスを受けて

P神学生

「愛されている」ことを伝える使命

「愛されている」というメッセージについて、この言葉がキリスト教において、重要な言葉であるということは間違いないだろう。キリスト教において、すべての人が神から愛されているという事態は、今現実に起きている事実として認識されている。神はありのままのその人を愛し、受け入れている。そして、人が「選ばれている存在」として「愛されている」現実を受け止め、それに応答していくことが人間の在り方において重要なものといえるだろう。

神からの愛はすべての人に注がれているということは事実である。そして、キリスト教の信仰者であるかどうかに関わらず、人間という存在は周りの人との関係において、人間の生を歩む上で愛されてきたという現実をそれぞれの人が持っている。しかし、人間は自己拒否という状況にあって、「愛されている」ということを忘れがちになってしまう。事実として「愛されている」ということがあったとしても、「愛されている」ということを自覚できないというのは現実としてある。自己拒否の状態は自分のみならず周りとの関係から自分を閉ざし、「愛している」という呼びかけから耳を背けてしまう。自己拒否の状態は人間の生の中で避けることはできない現実のものである。しかし、その都度、自己の置かれている状況を見つめ直し、語りかけてくる「愛されている」という現実を思い出して関係性を発見していく強さが人間に備わっている。

大切だと言える生き方とは、苦難の真実性を考察し、苦難に囚われず、人々との関係を思い出し、愛されている現実を喜びとして受け止めることである。これに従う生き方が「愛されている」ということに応答することであり、キリストを信じる人々は、このことを伝えていかなければならない。

新型コロナウィルスの社会にあるキリスト者

人間の生において「裂かれる」状態、傷を負う現実が存在する。病気という不安と孤独の中にある人々にこそ、また新型コロナウイルスのような世界の混乱や困難の現実にあるからこそ「愛されている」という現実をより自覚することが必要だろう。苦しみの中にあるときこそ、周りとの関係を閉ざし、または他者との関係を忘れがちとなり「愛されている」ということを発見しづらくなってしまう。

「愛されている」という現実を人々に告げることは傷への克服と同時に、愛されているということからくる生きる喜びを発見する手助けをするものだと考えている。だからこそ、キリスト者は生きる喜びが与えられていることを告げ知らせる、「愛されている」という事態を告げるのを止めてはならない。

現代社会の中で、「今日何人の人がコロナウイルスに感染した」という数字を耳にする機会が増えている。この数字は、自分と関係のないところで起こっている結果の数字ではなく、人々が苦しんでいる現実のものとしての数字であることを意識し、忘れてはならない。まさに「一人のその人」こそが、私たちの語るべき相手である。宣教する、伝えるという事柄において、実際の距離の近さというのは効果的なものではあるが、距離は絶対の条件ではない。言い換えれば、新型コロナウィルス感染の緊急事態の中で、伝えたい人々の近くに行き、直接コンタクトを取るということができなくとも、伝える者のするべきことはなんら変化していない。そして、注意しなければならないと考える事柄は、病気を警戒することと人を警戒することとはまた違うということである。

新型コロナウイルスの社会の状況の中で、フランシスコ教皇様がキリスト者に外に向かうように述べて非難を受けていたが、彼は間違ったことは述べていない。なぜなら、キリスト者が人々の間にあってキリストの愛を伝えることは当然のことだからである。気を配るべきはその方法であって、外に向かうこと自体は非難されるに値しない。メッセージを伝える使命を帯びている中で、その方法には気を配る必要がある。実際に近くには行けないとしても、映像通信や手紙などを用いて「自分の心からの声」を伝えることが必要だといえる。

人々が「愛されている」という事態と意識的に出会うため、また、「あなた」という存在が、神に、また人々に愛されている存在であるということを伝えるためにその人に寄り添う姿勢が大事になってくる。新型コロナウイルスの状況にあって、実際に近くに行って「愛されている」ことを伝えることが困難な状況にあって、このことは一層大事になってくるだろう。人という存在が決して一人きりでいるのではなく、「私もあなたを大切に思っています」ということ、「神も私もありのままのあなたを受け容れていること」の事実に出会って喜びをもって生きることができることを伝えていくことが、今を生きる私たちには大切なことだといえるだろう。

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