神学生による随筆 「心の凪」~新型コロナ
先月、二人の友人を、立て続けに亡くしました。一人は、末期の癌で余命宣告をされ、終末期を医療施設ではなく住み慣れた簡易宿泊施設で過ごしたいという望みを叶えた70代の男性。もう一人は、実家の近くに住む生活保護を受けていた60代の男性です。二人とも、普段身近に身内はなく、生活保護の受給と介護保険のサービスを受けて生活しておられましたが、不思議と彼らの周囲には善意の人々が集まり、関わりの輪が広がっていくという共通点がありました。二人が、周囲に放射し、そのように人を惹きつけていたものとは一体何だったのだろうと振り返るとき、おそらくそれは、「あるがままの状況を、自由な心で感謝しながら生きている」という点にあったように思われます。重い病気や身体的な障害を抱えながらも、周囲の人々への配慮と感謝を忘れずに、神様からいただいた命を最後まで生き尽くそうとする姿に、触れ合う人々は、人として大切な「何か」をそれぞれに受け取っていたのではないかと想像します。
新型コロナウィルスの渦中にあって、そうした親しい友人の天への旅立ちを身近に経験していた折り、作家の沢木耕太郎さんの記事をインターネット上で読む機会がありました。それは、「新型コロナとどう暮らすか―」というテーマのもとでのインタビュー記事でしたが、そこで沢木さんが次のように語っておられたのが印象に残っています。
語弊があるかもしれませんが、ごくごくシンプルに、(コロナ渦は)大したことではないんじゃないかと思う。僕たちのように高齢だったり、もともとハンディを抱えている人が肺炎になったら重症化するのは、実は当たり前のことですよね。仮に僕が、この新型ウィルスにかかってしまい、重症化して死ぬことがあったとしても、それは病気に『縁』があっただけだと思うわけです。もちろん、罹患を避ける努力や、人に何か迷惑をかけないように心がけるのは大切なことだと思うけれども、生活のすべてを変えようという気には全然ならない。それでも、もしかかってしまったとしたら、ちょっと予定よりは早いかもしれないけれど、70代までは生きることができたし、人生を充分楽しませてもらったんだから、何の文句もありません。だから、何か世界はすべて変わって生き方を変えなければ、というような話になると・・・・そういう人がいたって構わないけど・・・・、僕はタイプが違う、それだけのことかなと思います 。
一人旅を愛し、飄々と自由な心でこの世界を見つめる沢木さんらしい言葉には、何か、このコロナ渦のなかで漠然と鬱積したモヤモヤとした空気をスーッと晴れさせ、この状況を前にして、もう少し広やかな物の見方をしてみようという気持ちにさせるものがあります。
もちろん、現段階で有効な治療薬もワクチンもなく、無症状であっても人にうつしてしまう可能性があり、免疫力の落ちた状態では重症化や場合によって死に至るという新型コロナの特徴を鑑みれば、知らぬ間に自分が誰かに感染させてしまうのではないか、という不安と恐れはいつも感じていますし、多くの方々もそうだと思います。そのためには、不要不急の外出を控え、こまめに手を洗い、適切な身体的な距離を取るなどの対策は必要なことではあるでしょう。
ですが、新型コロナウィルスに感染した人を、まるで犯人扱いするようなメディアや世間の風潮には、首をかしげざるをえません。ウィルスに感染することが、まるで罪であるかのように考え、その責任を追及しようとする私たちの内にある心理というものは、ある意味で新型コロナウィルス以上に警戒すべきものだといえます。このような犯人捜しや責任追及に夢中になりやすい心理というのは、おそらく私たちの恐れや不安、また自分だけは間違っていないという驕りから来るものなのでしょう。私たちの不安や恐れにつけ込み、センセーショナルなニュースで耳目を集めたいメディアに踊らされてしまうと、私たちは本当に大事なものが見えなくなってしまうという弱さがあります。
福音書のなかで、イエスは次のように弟子達に語ります。
「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか」(マコ4・40)
世界中が、このコロナ渦に見舞われている状況は、ちょうど嵐に悩まされ、あわや難船するかと怯えた弟子達の狼狽する姿にも重ねられるでしょう。自分たちが今いる社会が根底から脅かされているかのように考え、今までのすべてが脆くも崩れてしまい、まったく新しい価値観を構築しなければこの危機は乗り越えられないかのように、私たちはどこか誰かにお尻を叩かれているような感じです。しかし、そのような困惑のなかに自分を見失いそうな時だからこそ、艫(とも)の方で寝ているイエスに声を挙げることがわたしたちには求められているのではないでしょうか。イエスはすべてを知っておられる上で、わたしたちが今信頼して立ち返るべき場がご自身にあることを、指し示しておられるのです。
イエスがおられるところには、《キリストの平和》という心の凪があります。その凪は、神様への信頼をとおして与えられる、何にも乱されることのない魂の平静さです。イエスはその魂の静けさをわたしたちに与えようと待っておられます。冒頭に紹介した二人の友人は、まさにその凪を自身の魂の中心に実現していたのだと、わたしは思っています。
1 取材・文:山野井春江「みんながこの状況を過度に恐れすぎている」―沢木耕太郎が「旅なき日々」に思うこと【#コロナとどう暮らす】(Yahoo!ニュース)https://news.yahoo.co.jp/articles/415bac348e6a69316ecc903f17dc363ee6e40448(閲覧日:2020年8月12日)