神学生による随筆 「コロナ禍にあっての終生誓願」~新型コロナ
P神学生
昨年から感染拡大が問題となり、現在でも健康的にも経済的にも悪影響を及ぼしているcovid-19によって、教会生活も大きく変容してしまいましたが、読者の皆様は如何お過ごしでしょうか。現在、神学生は夏季休暇に入り、慣れないオンライン授業もひと段落してきましたので、今回、3月に執り行われました終生誓願式について振り返ってみたいと思います。
遅くなりましたが、私たち終生誓願に参加してくださった方々、並びに遠方から私たちのために祈りと犠牲を捧げて下さった方々に感謝申し上げます。
コンベンツアル聖フランシスコ修道会では、3年の有期誓願期を経た後、第二修練の時を経て終生誓願を宣立します。この度は、上智大学神学部の卒業のタイミングが、ペトロ神学生と重なりましたので、2人で終生誓願までの第二修練の期間を過ごしました。有期誓願前の1人の修練の時とは異なり、志を同じくする兄弟が共にいることに安心感を覚えておりました。
概ね1月の大学の試験が終了して、直ちに修練所のある長崎聖母の騎士修道院に急行致しました。その当時は3月末にイタリアに行く予定があったので、早め早めの段取りで第二修練が開始されました。当時のコロナの状況としては、さほど感染者数は多くなく、長崎の地にあっては対岸の火事と感じていました。ですが、大型客船での集団感染、各地でのクラスター発生という深刻な事態が、日に日に拡大してゆくにつれ、修練中に日本の行く末を案じざるを得ないという状態でした。
修練長様の計らいで、日本26聖人殉教者の記念のミサが西坂で執り行われる際に、宮城修道士と小神学生と共に時津から巡礼を致しました。その当時は、ポルトガルから大陸を横断してきた青年が修道院に居候しておりましたので、彼も共に同行しておりました。ミサには多くの信徒が参加されていたのみならず、フィリピンから司教様や巡礼団がこられており、荘厳かつ聖なる雰囲気の中で、イエスの愛に対する殉教者の姿を思い巡らしていた次第です。
ですがコロナが徐々に蔓延るようになり、長崎の地に巡礼者や観光客を見かけなくなったのも事実です。聖母の騎士修道院へ訪れる巡礼団は全く見かけなくなりましたし、散歩途中に見かける観光地には人影はなくなり、ホテルや旅館の閉館、倒産というニュースをよく耳にするようになりました。長崎では観光業が盛んであるが故に、コロナによる経済的損失は深刻なものと思われます。
さて終生誓願の1週間前には、黙想の家で黙想を行います。通例、イエズス会が管理する立山の黙想の家を使わせて頂くのですが、今回、我々の利用が最後となりました。コロナとは別の理由で立山の黙想の家は閉じることになったのですが、やはり心さみしいものがあるのは事実です。修道生活を送る中で共同体や上長との関係の問題などにより、心に荒みを覚え、霊的に衰弱しきった私を癒し、励まし、その恵みのうちに歩もうという勇気と気力を得たことを、私は何度も立山での黙想を通じて経験してきました。この立山の黙想の家での出会いに感謝で胸が一杯でした。
立山での黙想の後、コロナの影響下でWHOの理解しがたい動向が目に付く一方で、消毒用アルコールやマスクのみならず、日用品の買い占めという問題が生じていました。勿論、終生誓願式にも影響が及び、会員と親族恩人、聖歌隊のみの参加で非公開ミサとなりました。韓国からも管区長様や総評議員のペク神父様も来られる予定でしたが、入国制限が厳しさを増す一方となり、残念ながら来られることはありませんでした。初めて聖母の騎士を訪れた際にお世話になった小崎修道士をはじめとしたご高齢の会員方の参加も、残念ながら自粛となりました。私の恩人もご高齢の故、残念ながら自粛されました。
フランシスカンに特徴的な兄弟の挨拶の抱擁も、濃厚接触を避けるために一礼に取って代わりました。抱擁は修道者としての兄弟家族の受け入れを可視的かつ体験的に表現したもので、この瞬間に感極まり涙する人もいるのですが、残念ながら、自粛となりました。
親族の参加は認められていましたが、私の母は介護職に就いております故、私の親族の参加はありませんでした。実のところ、有期誓願式の折に、親族の「旅行費」を巡って私と当時の修練長との間に悶着があり、「もう家族は呼ばないことにしよう」と心に決めていたのですが、いざ終生誓願前となると、やはり親族には参加してもらいたいという気持ちでした。ですが、結果として親族の参加は叶いませんでした。
このように、コロナの蔓延によって生活環境が大きく変化し、さまざまな機会や出会いを奪い去ってゆきましたが、私は一体何を失ったのでしょうか。確かに、今まで通りに行われていた慣例や習慣は見直され、祝祭の雰囲気は自粛の波に吞まれてしまいました。ですが、教会全体に支えられ、多くの人の祈りの助けの中で、神と人々への奉仕のために終生身を捧げる3つの誓願を宣立できたことは、何よりも替え難いことであります。あらゆる価値では量れない神の恩恵の出来事です。私の努力によっては為しえないものであります。この大きな恵みを、私はただで受けたのですから、「ただで与えなさい」(マタイ10:8)というみ言葉の通り、神と人々への奉仕のためにこの身を尽くしてゆこうと思います。
何故ならば、私が受けた終生誓願の恵みは、私個人だけのものなのではなく、教会全体のものだからです。親族の参加は叶いませんでしたが、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタイ12:49-50)というみ言葉の通り、全会員が、信徒の皆様が、そして教会全体が、私の親、家族となって下さったのです。この教会全体に支えられて修道者としての私があるのだといえるでしょう。
今振り返ると、コロナ禍にあって本当に終生誓願が行われるのか不安な自分であったと思います。ですが、更にコロナの影響を受けた今後の日本・世界の情勢を鑑みると更に不安は増す一方です。しかしながら、イエスは神のもとから、この「世」に遣わされたのです。ですから私も修道者として、このイエスに倣いて、コロナの影響を受けたこの「世」に対して神のみ旨を行うことができるよう心しております。
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