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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈三位一体の主日〉

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28・19-20)。




聖霊降臨に続いて、教会の典礼は〈三位一体〉の神を祝います。わたしたちには何か捉えがたい〈三位一体〉という神秘ですが、しかし、わたしたちに注がれる〈聖霊〉は、この人間の理解を超えた神秘を、わたしたちにも何らかの形で〈体験〉し、〈感得〉させることのできるお方です。

第二朗読で読まれる『使徒パウロのローマの教会への手紙』の中で、パウロは次のように語っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と叫ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子どもであることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」(8・14-16)。

「アッバ」とは、「お父ちゃん」という、非常に親しみのこもった呼びかけですが、聖霊は、わたしたちにこのような親愛の情を込めた呼びかけを、父なる神に〈叫ばずにはいられない〉程の心情にさせる方です。そして、そのとき、わたしたちの内で、そのような親しみに満ち溢れた心で〈御父〉に叫んでいるのは、他でもない〈御子〉である〈イエス・キリスト〉ご自身なのです。

このように、〈父〉と〈子〉と〈聖霊〉は、何かわたしたちが頭の中で作り出す、抽象的な概念なのではありません。わたしたちが生き生きとしたリアルな感情で、自らの内に体験することのできる〈実存的な体験〉なのです。それは、言い換えれば、〈わたし〉という存在が、その存在の底から〈神〉に〈肯定〉されているという無上の〈愛〉の体験だといってもよいでしょう。そして、自分が受けているその〈愛〉を、再び〈神〉に向かって捧げ返す、そのような応答的な〈感情の交流そのもの〉なのだといえるでしょう。

アシジの聖フランシスコは、自分自身の内にこのような溢れかえるような〈愛〉の交流を感じたに違いありません。それは人間的な理屈を超えた〈恵み〉の体験でした。〈父〉と〈子〉と〈聖霊〉が、それぞれの仕方で、ご自身を彼の精神の深奥に顕わしながら、〈三位一体〉の内で繰り広げられている〈愛〉の交流をいくらかでも体験させてくださったのです。これは、言葉で言い表すことは難しいものだったに違いありませんが、それでもフランシスコは、彼のできうる限りの表現で次のように語ってくれています。

忠実な魂が、私たちの主イエス・キリストによって結ばれる時、私たちは浄配となります。「天にまします御父の御旨を行う」時(マタ12・50)、主にとって、私たちは兄弟となります。神の愛と清く誠実な良心によって「私たちの心と体に主を宿し」(Ⅰコリ6・20参照)、「他の人々への模範として輝くべき」(マタ5・16参照)、聖なる業によって主を生む時、母となります。

天に御父を持つのは、ああ、なんと光栄に満ち、聖にして偉大なことでしょう!このような浄配を持つのは、ああ、なんと聖にして慰めに満ち、麗しく感嘆すべきことでしょう!私たちの主イエス・キリスト、このような方を兄弟および息子として持つのは、ああ、なんと聖にして愛情に満ち、なんと心地よく謙遜で平和に満ち、甘美で愛すべく、すべてに越えて望ましいことでしょう!
〈『全キリスト者への手紙Ⅰ』〉※1


フランシスコ自身からほとばしり出てくるこうした言葉は、彼の内で〈父〉と〈子〉と〈聖霊〉が名状しがたい不思議な仕方で、〈三位一体〉の神の神秘を味わわせて下さっているということを、伺わせてくれます。このように、〈三位一体〉とは、〈体験〉し、〈味わう〉ことによって理解するものだということを、フランシスコはわたしたちに伝えているのです。

イエスは言います。「父と子と聖霊の名によって、洗礼を授けなさい」(28・19)。つまり、洗礼を授けられた者は、本来、この名状しがたい〈三位一体〉の〈愛〉の交わりにすでに招き入れられているのです。こうして〈三位一体〉の神は、キリスト信者一人一人の中で、「世の終わりまでいつも共にいる」(28・20)ことを約束して下さっているのです。そう考えると、わたしたち自身が、〈三位一体〉の神秘の〈写し絵〉であると言えるでしょう。わたしたちが心の底から、この神秘を味わいたいと願うならば、その願いは〈イエス・キリスト〉のみ名において、〈聖霊〉を通して、〈御父〉に聞き届けられるにちがいありません。


※1『アシジの聖フランシスコの商品集』庄司篤訳、聖母の騎士社、1988年、72頁。

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