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諏方or諏訪? 佐渡の玄関口近くにあるお宮には明治の書跡がずらりと並ぶ 〜諏方神社①

さて、今回は佐渡の玄関口、両津港の近くにある諏方神社に参拝してきました。

境内にある由緒書によると

元禄14年2月10日9時御宮本社災焼、地頭渋谷十郎左エ門及び上杉の家臣川村主税之助等の旧記焼失により由緒不明であるが、社蔵旧文書(諏訪大明神旧記奇進帳)によると、文禄元年建立、同4年宮殿再建とあります。文化12年12月10日奉請して正一位の神階を受け御倫旨を賜り諏訪大神宮と称した。明治6年社格改正の際、26大区小1区の郷社に列せられ夷町・夷新町の産土神となる。同32年9月加茂歌代の一部を合併氏子区とする。同39年12月31日神饌幣帛供進指定社となる。

境内由緒書より

とあります。

諏方神社 明治神宮宮司 甘露寺受長書

社号標は明治神宮宮司の書。

拝殿
屋根には丸に諏訪梶の葉と思われる社紋があります。

拝殿には幾つか社号が書かれた額が掛けられていました。

向かって右:岩谷一六書 「諏訪神社」

その一つが明治を代表する巌谷一六(本名:修)の書。

落款に「正四位」とありますので、楊守敬の来日によっていわゆる六朝楷書を取り入れたあとの書になります。

焼けたためか、墨の色が薄くなっているのが残念ですが、六朝楷書らしい力強さを表現した書風が全面に出ています。

写真では伝わりにくいですが、肉筆の放つ「気」は時代の隔たりを感じさせません。

中央:東郷平八郎書「諏訪大神」
向かって左:久我素堂書「諏方大神」

他に2人が額を奉納しています。久我素堂の割れた線の表現が颯爽としていて面白いです。

さて、この3人の生没年を比較すると

久我素堂 1815〜1903
巌谷一六 1834〜1905
東郷平八郎 1848〜1934

となります。

ほぼ同時代の人でありますが、それぞれ諏訪と書いたり諏方と書いたりまちまちです。
現在の呼称は「諏方神社」となっていますが、『佐渡神社誌』(大正15年刊)では「諏訪神社」と記載されています。

全国的に「諏方」神社と書く神社はいくつか存在しているようですが、中世の行政区分上の表記だとか、諏訪大社に敬意を払ったためだとか、決まっていないようです。

こちらの神社は2つの書き方が併用して使われ、現在の呼称に落ち着いたのでしょうか。

また、この神社には日下部鳴鶴書の「溟北先生之碑」と「朔汀若林翁碑」もありますが、あまりに長くなるので、別にまとめています。

アクセス
〒952-0007 新潟県佐渡市浜田

参考文献
新潟県神職会佐渡支部 編『佐渡神社誌』,新潟県神職会佐渡支部,大正15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/971197 (参照 2023-12-10)

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