【高知旅行記】見知らぬジャズバーにて
ジャズ喫茶「木馬」のことは、高知に来る前から本で読んで知っていた。
1962年創業のシブい店。繁華街・帯屋町の一角にひっそり佇む木馬はただならぬ雰囲気で、普段なら入店を躊躇う空気を醸し出していたが、旅となるとそんな店にえいやと入る思い切りがつくのが不思議である。
客はおらず、自分ひとりがコーヒーを啜ってスピーカーの音色に浸る。やがて一人、また一人と来客があり、常連客5人と自分ひとりという構図になった。
地場で刀を研いだ手練れと、他所からのど素人
常連客は皆高知生まれで、この木馬に足繁く通い、セッションをともにする仲だ。そのうち最年長のドラマーの男性は、六本木で演奏していた経験があり、CDまで出している。そこに混じる自分は、ドラムを2年齧っているだけ。力量はお察しだ。
東京から遥々来て、ドラムを齧っていて、老舗に不釣り合いな若者を彼らは珍しがってくれた。身の上話や好きな音楽の話ですっかり緊張がほぐれ、そのCDまでサイン入りでプレゼントしてもらうという歓待ぶり。この時点で、ここに来た甲斐は十分あった。
壁の写真は、名も無き写真家の傑作だった
カメラをたしなむ自分は、良い写真へのアンテナが鋭い。木馬の壁には大判プリントの写真が2枚飾っており、その両方が店に入るなり自分の目を釘付けにした。
大胆な構図と削ぎ落とされたシンプルさ。あの写真がいいと言ったら、「私の父親の生前の作品だ」とドラマーの男性は言う。
その写真家はヨシカワヒロオという人物で、世界規模の写真コンクールで何度も入賞していた。今に換算して100万円ほどの賞金を稼げるほどの腕前だったが、名誉や名声に興味がなく、押し入れにネガを押し込め、ついに外に出すことは無かったそうだ。実際、名前で検索しても一つの結果もヒットしないのだから驚きだ。
ドラマーの男性は、写真をやる人では無かったが、そんな父の影響か「無駄を削ぎ落とすことの大切さ」を度々口にした。音楽も写真も、要素を詰め込んで間を埋めたがる人が多いが、余白が大事だと。
スピーカーから、ゆっくりで手数が少なく、間を長く取った曲が流れた時に「この溜めが良いな、要らんことしとらんな」とこぼしていたのに、今は亡き父親からの薫陶が感じられた。
田舎は排他的であると言う誤解
その後場所を変え、70-80年代アメリカのR&Bを流すバーへ。ChicやJames Brownなどの代表的なアーティストを少し知っていた自分は、それを入り口にしてマスターとの話に花を咲かせ、10組くらいのアーティストを教えてもらった。そこでも自分は、他所からの珍客として手厚くもてなされた。
ドラマーの男性が言った。
「都会人は知らないだろうけど、地方の人は余所者が好きなんだよ。余所者に優しい代わりに、地元民にはとことん厳しい。音色ひとつ取っても、その音は違うとか平気で言う」
田舎のコミュニティが排外的であるとか、ムラ社会的な言説をなまじ信じていた自分には、ちょっと意外な響きだった。
高知は四国の中でも辺鄙な県だ。県北には険しい山が聳え、県南は太平洋の大海原である。
他から閉ざされたこの地域では、お互いがお互いを厳しく批評し、互いの音を研鑽し、地元が誇る「高知のジャズ、自分達のジャズ」を作り出してきたのだろう。
もしかすると、ここ木馬で通用するのは、東京のブルーノートに立つのと負けず劣らぬくらい努力が要るのかもしれない。
今回、木馬で演奏を聞くことは叶わなかったが、東京でブルーノートを聞いたら、またここに戻ってこよう。メインストリームにはない、地場で研鑽された音色に、南国高知だけの趣が感じられるかもしれない。
ついでに、自分も勇気を振り絞ってドラム・セットを叩いてみよう。前よりも地元民に近づいた身分で、コテンパンにダメ出しされて伸ばしてもらおうじゃないか。
令和の紀貫之 ジャジーな土佐日記
終