東北地方の石造物⑮:林泉寺石殿(会津夫人媛姫・上杉勝周・仙洞院・菊姫の墓など)
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名称:林泉寺石殿
伝承など:媛姫・上杉勝周・仙洞院・菊姫の墓
所在地:山形県米沢市林泉寺 林泉寺
山形県の米沢市は、戦国時代には伊達氏の居城であったが、関ヶ原の戦いの後には上杉家三十万石(後には十五万石)の城下町となり、現在も上杉家ゆかりの寺院が多い。
その中でも林泉寺は、かつては越後長尾家の菩提寺として春日山城下にあった名刹で、上杉家とともに米沢に移り、江戸時代以降も藩主上杉家の菩提寺であった。
歴代の上杉家当主は別に霊廟を設けたため、林泉寺には藩主の夫人や子女達の墓があり、墓所はいづれも地元では「万年塔」と呼ばれる石殿によって構成される。
この石殿は内部に五輪塔が納められ、上杉家藩主達の霊廟も木造の廟の中に五輪塔を納める形式であり、これは厨子に仏像を納めるのと同じ発想によって造られたものであるが、米沢市内では特にこの形式の石塔が多い。
一説には、上杉家が米沢に移封された際、直江兼続が有事の際にこれを積み上げて石垣とし、さらに格子窓を銃眼に用いるために考案したと言われるが、この形式の石塔は関東を始め他の地域にも中世から広く見られる形式のためそれは俗説であろう。
ただ、市内の寺院の墓地にも同様の墓石が多く見られるため、何らかの理由で上杉家の家中に好んで用いられた石塔であることには違いあるまい(戦国期以前の事例がほとんど見られないため、この地方に古くからある形式なのか、上杉家が持ち込んだものなのかはわからない)。
上杉家墓所中の石殿では、二代藩主上杉綱勝の夫人で、会津藩主保科正之の娘であることから「会津夫人」と称された媛姫の墓が最も大型で最も古いものであろう(一枚目)。
墓所の奥まった所にある二基の石殿(二枚目)は、会津夫人の墓とほぼ同型であるが、やや時代が下る作と思われ、向かって左側の石殿(三枚目)は三代藩主上杉綱憲の子で、分家米沢新田藩一万石の藩主となった上杉勝周の墓である。
この勝周の墓は、正面に木の格子がないため、内部の五輪塔の形がはっきりとわかる(四枚目)。
墓所内には、初代藩主上杉景勝の生母である仙洞院(上杉謙信の姉で上田長尾家の嫁いだ女性)の墓(五枚目、六枚目)や、上杉景勝夫人の菊姫(武田信玄の五女で甲州夫人と呼ばれた)の墓(七枚目・八枚目)もあるが、こちらは会津夫人や勝周の石殿よりも小型で年代の新しいものであり、後年造立された供養塔であろう。
菊姫の石殿は笠と塔身が別石であるため、あるいは当初の墓石が破損したために笠を後世新調したのかも知れない。
どちらも石殿と角柱塔が並んでいるが、角柱塔の方はさらに年代が新しい江戸時代後期の作であり、こちらは供養塔と見るべきであろうか。
また、米沢市内の極楽寺にある藩主の側室達の墓(九枚目)は、元々林泉寺にあったものであり、こちらも同型の石殿である。
なお、林泉寺の広大な墓域には、他にも上杉家家臣団の墓塔が並び、その中でも甘糟景継、水原親憲、直江兼続夫妻の墓などは石殿形式である。
このうち、上杉謙信、景勝に仕えて活躍した猛将・水原親憲の墓(下の写真二枚目)は、元来は他の石殿と同じような形式であったのであろうが、墓石が瘧に効くと言う俗信があったために長年に渡って削り取られ、現在では内部の五輪塔がむき出しになってしまっている。
また直江兼続夫妻の墓(下の写真三枚目、四枚目、四枚目が兼続の墓)は元々は菩提寺の徳昌寺にあったが、後に徳昌寺が廃絶の上に米沢から追放になった結果、墓石は林泉寺に移され、現在の墓石は明治時代になって再建されたものである。
ただし、どちらも笠と塔身より下の部分は一対ではなく、当初の兼続夫妻の墓の笠だけが残ったか、あるいは笠は全く別の墓石だったのかも知れない。
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林泉寺の墓域には大型の五輪塔も多く、いづれも江戸時代以降の造立であるが、米沢藩の侍大将を代々務めた長尾権四郎家(元来は上野白井城主・白井長尾氏で、長尾景広の代に上杉景勝に仕えた)の墓所(下の写真一枚目、二枚目、二枚目は綱憲時代の米沢藩江戸家老で、「忠臣蔵」にも登場する色部又四郎の実父・長尾景光の墓であり、地輪に元禄十五年銘がある)、武田信玄の六子で武田家滅亡後に上杉家に仕えた武田信清の墓(下の写真三枚目、四枚目)、柴田勝家と交戦して魚津城で戦死した吉江宗信の墓(下の写真五枚目、ただし墓石は後代のもの)などがある。
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