北関東の石造物㊵:光得寺五輪塔群(足利氏・高氏墓所)
名称:光得寺五輪塔群
伝承など:足利氏・高氏墓所
所在地:栃木県足利市菅田町 光得寺
足利市街地北東の樺崎町には、かつて樺崎寺と言う寺院があった。
樺崎寺は鎌倉時代初期に足利氏初代の足利義兼によって造立され、以降足利氏の菩提寺になり、江戸時代には鎌倉公方足利氏の後裔である喜連川氏によって樺崎八幡宮が造立されたが、明治期の神仏分離によって樺崎寺は廃絶し、八幡宮のみが残された(現在は国の史跡に指定され、調査・整備が進んでいる)。
樺崎寺には、足利氏歴代の墓所があったが、これは廃絶の際に菅田町の光得寺に移されて、現在に至っている。
近年、修復されて本堂前の覆屋の納められ、現在は格子越しにしか拝観出来ないが、私は知人の紹介で幸運にも内部に入って撮影することが出来た(庫裏に申し出れば、鍵を開けてもらえるらしいが)。
この五輪塔は、移動の際に当初の配列と異なってしまい、またパーツごとに運び、組み直す際に混乱があったのか、明らかに当初の組み合わせではないと思われる石塔もある(光得寺では寺伝を尊重し、修復の際に組み合わせを直すことなく、同寺に移動された時と同じ状態で覆屋に納めたとのことである)。
伝承によると、後列の大型の五輪塔が足利氏の墓塔で、前列の小型の五輪塔が、足利家の執事であった高氏・南氏の墓塔とされる。
伝承はともかく、大型の五輪塔は凝灰岩製で鎌倉時代後期から末期、小型の五輪塔は安山岩製のものも混じり、南北朝時代から室町時代の作と考えられる。
大半の石塔は無銘であるが、墓所内五基のみ銘文が刻まれており、このうち「浄明寺殿」の銘文がある五輪塔(三枚目)が足利貞氏の墓(「浄明寺殿」は貞氏の法号)、「康永二年」の銘文がある五輪塔が高師重(高師直の父)の墓とされ(五枚目)、康永二年は師重の没年と言う(ただし、文献上の裏付けはとれない)。
他に大型の五輪塔の中には、「長□寺殿」と刻まれたものがあり(四枚目)、これは江戸時代までは「長寿寺殿」と判読出来たと言う。
「長寿寺殿」は、初代鎌倉公方の足利基氏が父の尊氏の贈った法号で、欠損した文字が実際に「寿」であるなら、この五輪塔は尊氏の墓と考えられる。
石塔は伝・貞氏の墓と、康永二年塔の間くらいの作(康永二年塔の方により近いか)と思われ、尊氏の墓だとすると年代的に若干のずれがある。
古記録には、樺崎寺には初代義兼から鎌倉公方までの墓所があったとされ、そこには当然尊氏の墓もあったであろうから、後世その記録に合わせて「長寿寺殿」が追刻された可能性もある(と考えると、貞氏の「浄明寺殿」も追刻かも知れないが、こちらは年代的な違和感はないため、当初からの銘文かどうかはともかく、ひとまずは貞氏の墓と考えておきたい)。
鎌倉期に造立されたと思われる大型の五輪塔には、時代差がさほどないので、貞氏の時代に一度にそれ以前の当主の供養塔が造立され、貞氏死後に彼の石塔が(おそらく尊氏によって)造立されてそこに加えられたとする見解もあり、私もそう考えた方が妥当だと思う。
五輪塔群の中で最も大型で最も造立時期が古いと思われるのが、前列向かって左端の五輪塔(八枚目)で、上記の説に従えばこれが最初に貞氏によって造立された氏祖供養塔なのかも知れない。
大型の五輪塔は全部で九基あり、初代義康から七代貞氏までの当主、および早世した尊氏の異母兄で、近年では尊氏の前に当主であったと考えられている足利高義の墓に氏祖塔を加えればちょうど数は合う(ただし、鎌倉時代末期には、義康の子の義兼を氏祖と認識していたようなので、大型の五輪塔すべてが当主の供養塔と言うわけではないかも知れない)。
いづれにせよ、足利氏の墓塔として造立された五輪塔であることには違いなく、鎌倉時代の五輪塔が集中して残る事例として極めて貴重な石塔群である。
なお、この他に銘文がある五輪塔としては前列小型五輪塔の中の、応安四年銘の南宗継の墓(六枚目)と、観応二年銘の高師直の墓(七枚目)があるが、前者は乱積みで当初のままの形ではなく、後者はおそらく追刻であり、元々は師直とは無関係の石塔であろう(高氏の墓石が含まれることから、後世師直の墓もあると認識されて没年や戒名が追刻されたか)。
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