
【3分で読める世界史】明の対外危機
15世紀半ば頃から、明は北と南の両方から圧力をかけられる形になります。
この記事を読めば、明の対外危機の様子が分かります。
①オイラトの侵入
永楽帝の死後、北方からモンゴル人勢力が明を脅かします。
モンゴル高原の西方に位置していたオイラトが強大化し、明に貿易を迫りました。
しかしこれを明は拒否。
すると明が断ったことを口実に、オイラトのエセン=ハンが明に侵攻を開始。土木堡(どぼくほ)で明の正統帝を捕らえる事態に発展しました。(土木の変)
明は北への防備のため、万里の長城をさらに強化します。
②北虜南倭
16世紀になると明は、海禁に反対する勢力により北から南から圧力をかけられることになります。(海禁については「アジア貿易の繁栄」参照)
まず北からは、今度はモンゴル高原の東方に位置するタタールのアルタン=ハンが、明に朝貢貿易を要求してきます。
一方、南からは海禁に対抗し、武装して日中間の密貿易を行う後期倭寇の海賊行為が活発化しました。
この北と南からくる脅威を「北虜南倭」と呼びました。
③明の後退
北虜南倭により明は、貿易統制を緩める必要に迫られました。
タタールと冊封関係を結び朝貢貿易を認め、後期倭寇に対しては海禁を緩和することで対応します。
これらの動きにより北虜南倭は収まったものの、明は大きなダメージを負いました。
終わりに
いかがだったでしょうか。今回は明の対外危機についてお話させていただきました。
次回は、明の衰退をお届けします。お楽しみに!
参考文献
いいなと思ったら応援しよう!
