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教育=大人が子どもに接する全て

教育って大事です!
誰もが「そりゃそうよ」って話ですが、最近感じた心から思う出来事。がありました。

ある学校で、新しい単元を指導する現場を見ました。対象は小学生。先生は開始時間まで児童を待たせます。待っている児童は何をするでもなくおとなしく椅子に座ってます。少し経つとある子が声を発します。近くの子が「〇〇ちゃん、静かにしいや〜。」って、注意します。先生は満足気な顔。しばらくして、違う子がよそ事をします。近くの子が気づいて「〇〇くん、ちゃんとしいや〜。」って、注意します。他の子も一緒に「おとなしく待っておきや〜。」って、注意します。待つ事7.8分。授業が始まるチャイムがなります。

この時点で、えっ何で???

としか、思えません。
小学生が7.8分間おとなしく待つ事より、その7.8分で何か先生と児童でコミュニケーションを取ったり、授業とは関係ない事を子どもたちに発表させたり、ゲームをしたり、7分あれば十分何か出来たはずなのに。
 静かに待つ事って、それはそれで小学生が集団で7分間待つ事が出来たらすごいけど、その時間自主的に本を読んだり、隣の子と話をしたり、授業の予習や復習、何でも出来るのに「静かに待つ」って、やらされてるとしか、感じません。それを自主的に行えるとしたら、

なぜ、静かに待たなくてはいけないか?

を理解させなくてはいけないはず。ましてや、それが出来ず注意を受ける子が数人いて、注意する子は静かにしながら話し始める子を我が物顔で注意し嬉しそう!

 コロナ禍、家で「おとなしくさせられる国民」と「遠くまで出かける国民」や、「外で遊んでる人を注意する私設警察的な人たち」。
 学校での先生と子どもたちを見て、「政治家」と「自己判断できない大人たち」、そしてそれを「勝手に取り締まる大人たち」の真似をしているように観えてしまいました。

 本来、小学生の自由でクリエイティブでアートな思考を大人が抑え込んでいるように思えてなりません。
 周りの人に迷惑をかけない、仲間と協力する、気を配るって、本当に大切な事だと思いますが、自分らしさをお互いに認め合う「多様性」こそ、初めに身につけるべき事だと思います。
「みんな違ってみんないい!」「もっともっと特別なオンリーワン」なんて、ステキなフレーズあるのに、何故か人と一緒である安心感を植え付けてしまう教育を何とか変えていきたい! 
 けど、なかなか難しそうだなぁ〜って感じる出来事でした。

でも、僕らスポーツコーチでも出来る事から、少しずつ変化を起こしていきたいと思う出来事でした!負けないぞ!

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