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近代恋愛観の相対化、『付き合う』行為の没目的性を暴露する。
いま私たちの住んでいる生活世界は近代システムと分かち難く結びついており、そのパラダイムが近代以降に成立したものに過ぎないことは疑いの余地がない。だからこそ近代パラダイムの反省や「近代の超克」が目指されてきた。学問の世界でも、普遍性を追求する「神学主義」的アプローチは廃れ、西洋絶対主義を相対化した構造主義が影響力を持つようになった。
したがって、思想・理論のレベルにおいては(実践のレベルではないことに注意)、近代パラダイムの相対化は当たり前のことになってきたわけだが、それが十分でない分野も存在する。
その一つが、恋愛である。
例えば、小谷野敦は著書「恋愛の超克」で「近代の超克」の「取りこぼし」として「恋愛の超克」を課題に据えている。
さて、恋愛が近代の産物に過ぎないことは想像に難くない。
自由恋愛をした両性が婚姻・再生産を行うロマンティック=ラブの規範は、近代社会に特有のものである。前近代、いや近代以降でもつい最近までは自由恋愛と婚姻・再生産は繋がっていなかった。
今、現代人が当たり前に築いている恋愛関係・行為は、「自由恋愛→婚姻・再生産」という非常に限定的な規範のもとでしか成立し得ないのは確かである。
例えば、「好きです。付き合ってください。」とはロマンティック=ラブ規範のない社会にとっては意味不明なフレーズである。「付き合う」とは何なのか。何も自明ではない。
近代恋愛観を超克するのはそう簡単ではないが、ひとまず近代恋愛観を社会現象として分析することでその構造を明らかにし相対化を試みたい。以下、「付き合う」という行為を取り上げる。
「付き合う」とは何か?
大きく3つ考えられる。①相互独占契約、②相互権利義務関係の確立、③近接性の許可 である。
①は婚姻の前提としてである。付き合っている両性は相互の独占を社会的に約束しており、浮気をするとバッシングされる。
②は、例えば「甘える」「甘えに応えてあげる」というタイプの権利-義務関係である。ひとは甘えたくても他人に甘えていいか不安を覚える。甘えた相手が必ずしも甘えに応えてくれるとは限らない。そこで、ある種の権利-義務を確しておくことで恋人には比較的容易に「甘える」ことが可能となる。なお、この点に関し社会的に規定された権利-義務のレベルを超えて、恋人間の「甘え」が極度の「甘ったれ」「甘やかし」に転換するとどうなるかという問題も想起される。
③は、心的にも物理的にも相手に近づいてよい、という社会的・個人的な赦しである。パーソナルスペースという考え方が示すように、どれほど他人に近づいていいかは関係性により規定される。心的にも物理的にも、近づくことのできる距離は関係性に依存しており、恋人関係という関係性は近接性を許す側面がある。
さて、ここまでは「付き合う」ことの内在的な機能についてである。
これらの考察を踏まえると、「付き合う」ことは、人間同士の関係性と、それに裏付けられた機能・契約の束であって、終着にあたるような目的・目標はないことがわかる。恋愛・「付き合う」ことはゴール不在の「過程」でしかないのだ。そこにはひたすら過程しかない。不可能性に向かうこの恋愛の没目的性は時に恋愛の継続を危うくする。
近代パラダイムは常にゴールや普遍的答えを求めてきた。これは時間観にも通ずる。ヘーゲルの歴史観がそれを象徴するように、近代世界の時間は直線的に進む(と考えられる)。一方、先ほど見たように恋愛に目的や終わりはない。したがって、近代の恋愛は直線的に進み続ける時間の中で絶え間なく紡がれる、ゴールなき過程である。いわば「伸び続ける矢印」である。
ひとは何事にも意味や結果を求めてしまう生き物だ。生きる意味や人生の価値を探し求めようと苦悶する。しかし恋愛に意味や結果はない。伸び続ける矢印に身を任せるのが恋愛である。
では、この目的不在の恋愛が近代人を自由にしているのだろうか。それとも、近代人は恋愛の没目的性に耐えられず苦しんでいるのだろうか。この点にはさらなる考察を要するだろう。