見出し画像

天国ですら生きづらい

何をしてもつまらないし、希望など1ミリもなくて、生きようと思う。
だから、うつ病について書くのを最後にしようと思う。


そのタイミングが完治とともに訪れるのだと、どこか期待していた。
思っていたのと違う形でそのタイミングが訪れて、少し驚いてもいるのだけど、そもそも予定していたことが予定していたように起きたことなどほとんどないのだから、ここまでの人生のほとんどを予定外に過ごしているのだから、予定調和なまでに予定不調和だ。

優しさの扱い方が何かを解決すると思っていた。だから優しさについて考えようと思ったし、考えた。その上で優しさでは何も解決しないというのが着地点だった。人生はくだらないとか、この世の全ては無駄とか、そうやって明瞭にしようとしたものが最終的に授業後の絵の具バケツのような、何色とも言えないけど曇っていることは確かな色で、キャラクタだったら闇属性の、何かであることだけを規定して、それ以外は全て無に帰すような結論になることばかりだ。

欲しかった結果は何も得られなかった。この世に優しさのマニュアルはないし、各々の優しさが人を傷つけ続けることを、今では常識のように思っている。僕たちに優しさを扱うことはできない。

傷も受け入れることにした。全部嫌になって日本を出てみて、「幸福度ランキング1位」のフィンランドで生きてみれば何か幸せかなとか。経済大国アメリカで生活してみたり、カナダの大自然の中に飛び込んでみたり。そうやって半年くらいいろんな家庭にお邪魔させてもらって、生活してみたけど、なんだ、日本人が苦手なのではなくて、人間が苦手なのか。と、余計なことに気づいてしまったみたい。それだったら「日本は生きづらい」って言い続けて、海を渡れば自分の価値観が受け入れられることを夢想して、どこか遠くの桃源郷を想像しながら死に絶えていく方が、幸せだったのかも。少なくとも天国は幸せな場所だと思いながら死ねたかもしれない。今の僕は「絶対に天国も生きづらい。」って言い切れる謎の自信がある。多分どこにいたって傷つくんだ。

でもそれが、”諦め”かと言われるとそうではない気がしている。これはなんだろう。一生傷つきながら生きていくことを受け入れたわけでもないし、諦めたわけでもない。もう抵抗もしないし。それ諦めてるじゃん。って言われても別に「あなたがそう思うならじゃあそれでいいです。」としか言えない。疲れているのかもしれない。

全部を投げ出したわけでもない。積極的にこの人生を進めたいと思っている。傷つきながら。何も楽しくないのに驚くほど死にたくない。「それは何かが充実しているんだよ」とか言われたらその人のことはタコ殴り。
もう欲しいものもないし行きたい場所もなくて、どこにも居場所を見つけられなくて、なりたい姿も一切なくなった。本当に楽しくない。本当に楽しくないくせに「絶対に長生きしよう」って思っていて、ほら、こうやって、 ”くせに”とか使うわけで、それが自分を苦しめていたのだと思う。

人生がとても楽しいから長生きしたい。
人生が全く楽しくないくせに長生きしたい。

こういう二文を見たときに何も考えていなかったのだけど、「人生は楽しいから長生きしたい」という文章と同じくらい当たり前のこととして、「人生が楽しくないから長生きしたい。」が存在していいはずなんだ。

人間が優しさで人を傷つけている世界で、どこに行っても人間が嫌いで、将来への希望なんて何もなくて、何しても楽しくないときに、「生きたい」が残ったのならば、その生きたいを説明する必要など一切ないし、ただそこに生きたいという感情があるというそれ以上でも以下でも、それ以外の何物でもない。

今までそれが希望だと思っていたものがなくなっても生きたいが残るのであれば、もうそれはそれなのだ。言われてみればうつ病だとか生きづらいだとか、人間が嫌いだとか、そんなことが自分の”生きたい”に関与していいわけがない。だからもう鬱病について書かなくていいと思った。これ以上何かを説明しようとして自分を正当化しなくても生きれるんだもの。何度鬱病になっても生きたいと思う体なんだ。そこに説明はいらない。ただ存在するだけでいい。
天国ですら生きづらいし地獄も住めば都。そう思う人がふたりくらいいてもいいでしょ。

いいなと思ったら応援しよう!