見出し画像

語り出す個性  2025.1.15

今シーズンが始まって、二度目の稽古。夜。
 稽古場にむかって車を走らせる。途中、一時間半程度時間に空きができそうだったので、近くのマクドナルドで自分の作業を進めつつ、今回の企画のことをぼんやり考える。現状としては、来週には試演会を控えてはいるけれど、手探りで方向性を探っている状況。そもそも試演では完成品をみせるというわけでもなく。重要なのは、追求している過程の丁寧さにあるのだろうと思う。言葉になっていないものを言葉に、形になっていないものを形にしようとする時間。そもそも劇場を申請し、無事抑えられた時には公演をするつもりだったが、昨年の様々な事情とタイミングの問題もあり、このような形での実施となったらしい。
 自分は、昔から映画のDVDについてくる特典のメイキング映像や、ドキュメントのようなものに強く惹かれる。白状すると、下手したら作り上げられた作品より、作り上げている過程や作っている人の方に興味があって、作品そのものに強い関心を持っていない場合もある。それは、逆を言えば作品が不出来で、観るのがしんどい場合でも、それを作った人自身に強い関心を持てていれば、その作品を自分なりに受け取ることができるように思う。しかし、そのまた逆もしかり、作品のクオリティが高く、技術的に優れていたとしても、それを作っている人間に関心が持てなければ作品を受け取ることは困難であり、そこには苦痛がある。
 そういう意味では、今回集まっているアーティストたちには、その人自身に強い関心を持たせてくれるなにかがある。私は彼らの正体、個性について考えてみたいと思う。


 そうこうしているうちに時間になり、稽古場へ。今日は前回とは違う広めの部屋で、スリッパを履き階段を登ると、パタパタと乾いた音が響く。ドアを開けると五味さんが既に到着していて、その横には、峰尾かおりさんの姿。新年の挨拶を済ませる。
「見学にきたー」といつものリラックスした声。彼女もまた興味を惹かれるアーティストの一人だ。俳優であり舞踏家でもある彼女の肉体表現からは、いつも独特な、命の匂いがする。
 その後、今朝送った原稿の発信方法のすり合わせをして、みんなが揃うまで各々の過ごし方で待つ。間も無くやってきた真吉はフードを被って、床をコロコロと転がり、ミノムシしている。やがて、山田さんも到着すると、いつも通りせっせと自分の作業スペースの確保を始めた。
 空間が変わると、自分の居場所を定めるのに悩む。自分も近くにあった長机と椅子をガチャガチャと準備してみたりしてみるも、山田さんの対角線上になってしまい落ち着かない。公演で初めての劇場に入った時もそうだが、どこかで自分の定位置を探して、うろちょろしてしまう。結局、山田さんが話し始めると、なんだかみんなと遠すぎるような気がして真ん中あたりの床に座る。


 何かゴールが予め定まっていて、そこにむかって突き進んでいくわけでは無い創作現場では、試行錯誤が続く。既存の舞踊譜、記号を使った真吉のダンスの創作。山田さんはダンスにおけるドラマ、ドラマとはなにか、必要か、ということに関心がある様子。ディスカッションは続く。
 やがて加藤さんがドアを開けて音もなく入ってくると、
「今日って加藤さん、なんか舞います?」と山田さん。
「あ、はい。」と加藤さん。普段の稽古場ではあまり聞かないやりとりに少し笑ってしまう。
 真吉が記号を使い、作ってきた振りを見てみる。その後、同じ振りに表情なのか内面(感情)なのか、感触なのか、ドラマなのかを加えてもう一度踊る。つくづく、表現とは見えているものだけでは成り立たないこと感じる。では型とは、説明とはなんだろうかと考えさせられる。
 山田さんから、ダンスを創る上での軸はどこにあるのか?という疑問。興味深かったのは、真吉が何年も前の風景、写真のように記憶を思い出して踊りに反映しているということだった。音楽はそれを思い出すための装置のようなものらしい。意識だけでなく、無意識で体が蓄積している記憶や、自分の中にある題材をそのような方法で自分から引き出し踊っているということにも驚いた。僕も理性や論理、計算速度だけならAIには勝てない中で、どうやったらものを書く時、作品を創る時に自分の無意識、自分の中の自然を引き出せるのか考え悩んでいるので、このことはナニカのヒントになりそうだと思った。
 この舞踊譜として書かれた記号を立ち上げるなら、私たちよりもっと上手にできる人は沢山いる中で、真吉の生理感覚などを反映したりしながら作りたい。という方向性で進んでいく。
 ここで演出家の鈴木忠志さんがインタビューで言っていたことを思い出す。演劇には古典という考え方はなく、ギリシャ悲劇でもシェイクスピアでも、そのテキストが昔に書かれたものでも、そのテキストを今の私たちが使って、今を生きる人間の眼の前で、現在行われている以上は現代のものであり、テキストが古いものであってもそれは古典と呼ぶべきではない。そんな考え方を、舞踊譜を五線譜や戯曲といったものに置き換えた時に、昔書かれた記号でも言葉でも意味でも、今、目の前の観客、目の前の社会に有効に働くように使うということが、舞台表現には必要なのかもしれないと考えを巡らせる。

 加藤さんが出演する日本舞踊を、昨年は観に行く機会に恵まれた。改めて思ったのは、能や神楽もそうかもしれないが、大道具をほとんど必要とせず、共通の舞台に衣装と簡単な小道具、そして踊り手のみで表現される時空間、風景には、そのディティールやイメージ、観念に到るまで引き算の美学というか日本的な美しさがあるということ。
 この日は加藤さんが振り付けをしてきた、かごめかごめの舞を見て、簡単なディスカッションを行なう。改めて僕が今回考えたいのは、舞台芸術において何を説明と考え、何を表現と捉えるのかということ。言葉を重ねると、何を記号や表層と捉え、何が特殊性や本質と捉えるのか。そんなことだ。伝統芸能に接近するというのは、絶えずその表現ジャンルを大きな主語で考えなおすということに繋がるのだと再認識する。


 この日は最後に、五味さんのパフォーマンス。演出の山田さんから予めいくつかのキーワードが手渡されていた。言葉を極力使わない、体を使った語り。
 違う言語圏の観客とオノマトペを共有するところから始まり、鶴女房を下敷きにしたパフォーマンスへ。面白かったのは、オノマトペという日本語でありながら意味ではなく、音を表現している言語の存在。例えば、今は犬の鳴き声はワンワンが標準かもしれないが、昔の犬の鳴き声はビャウビャウだったとか。人間の耳で聞いた音を解釈して、日本語に変換して、再び音にして表現する。ある意味では、そのフォントの質感に至るまでの往復書簡的な感触の面白さを感じる。そう考えた時に疑問なのは、オノマトペは記号だろうか?言葉だろうか?
 パフォーマンスは、その細部のディティールまで観客に想像させる、遊び心を持った、言葉が先行しない、肉体と空間とイメージが総合的に世界を作り上げていく感じが大変素晴らしく。稽古場でも傑作は観れるなあという満足感に包まれた。良い舞台表現に出会うといつも思うが、後になって思い出すのは、ストーリーではなく、あの時、あの瞬間。誰かの個性が光る瞬間だ。
 語りについて考える時、ついつい落語と比べて考えてしまう自分がいる。よく目が語っているなんて言い方をするし、目は口ほどに物を言うなんて言い方があるくらい、語る部位とその比率、内容にはどのような関係性、可能性が埋まっているのだろう。


 時間ギリギリだったので、急いでみんなで外に出て、寒空の下感想を言い合ったり、今後のスケジュールの確認などをして解散。帰りの方向が一緒だった真吉、峰尾さんと車で帰りながら、なんとなく今日の稽古のことを語り合いながら、帰宅。
 なんだか、夜の稽古終わりは自分の体もほんの少しだけ変わった気がして、外の空気はいつもより透き通って感じる。


web予約フォーム

いいなと思ったら応援しよう!