【中年の危機を生き延びる】(19)「忘れて、捨てて、許す」〜塩沼亮潤大阿闍梨の言葉〜
うつ症状に苦しんでいる人の中には、何かしらの「罪悪感」を抱えている人も多いのではないでしょうか。
私もその一人で、主観的には「1秒たりとも自分を責めていない時はない」という感覚でした。
自殺予防研究の大家として知られるシュナイドマンは、自殺の本質を「存在することの苦痛」と表現しましたが、とてもよくわかる気がします。自分自身が、自分の存在を許せないのです。
そんな苦しみの中で知ったのが、慈眼寺というお寺の住職である、塩沼亮潤大阿闍梨(しおぬまりょうじゅん・だいあじゃり)の存在でした。
塩沼さんは、荒行として知られる「大峯千日回峰行」の満行者。
「大峯千日回峰行」は、「1300年の歴史で達成できたのはわずか2人」とされる命がけの修行で、毎日48kmの険しい山道を16時間かけて歩き、それを千日間続けるというもの。
一度この行に入ると、天候が悪かろうが、体調が悪かろうが、どんな理由があっても途中でやめることは許されません。やめる時は、「短刀で切腹するか首をくくって命を絶つ」ことと決められているのです。
塩沼さんはこの極限状態の中で、「人はいかに生きるべきか」を問い続けたそうです。彼は言います。
「いや、その切り替えができないんですけど……」と言いたくなりますが、塩沼さんはそれを「実はとても簡単なこと」と言います。少し長い引用になりますが、大切なことが語られていますので、ぜひ読んでみてください。
命がけの修行をした人の言葉は、やはり重みが違います。
この中で私が特に驚いたのは、「そうしたマイナスの感情は、全部いりません」という言葉。「え、マイナスの感情は全部いらんの?」と、目が点になりました。
塩沼さんの言葉を読んで気づいたのですが、私は心のどこかで「マイナスの感情は必要だ」と思っていた気がするのです。
罪悪感に囚われている時、私たちは自分を責めます。きっと真面目な人ほどそうでしょう。しかし、それはむしろ「自分のためにやっていること」なのかもしれません。
そのようにして「自分を罰する」ことによって、私たちは心のどこかで「禊(みそぎ)が済む」ことを期待しているのではないでしょうか。
マイナスの感情を抱くことで禊が済むのなら、いくらでもマイナスの感情を抱きます。その意味で、罪悪感は麻薬のようなものであり、ここから抜け出すのは並大抵のことではありません。
……という風に考えてしまうこと自体が、塩沼さんに言わせれば「自分で言い訳をして難しくしている」ということなのかもしれません(笑)。
だからこそ、「そうしたマイナスの感情は、全部いりません」という潔い言葉が、私の心に響いたのです。
あらゆる言い訳を捨てて、「忘れて、捨てて、許す」。それが難しい……と言いたいところをグッとこらえて、「忘れて、捨てて、許す」。
大阿闍梨が言うのですから、ここは潔く信じようではありませんか。
ふと思ったのですが、「修行」が悟りへの道であるならば、「中年の危機」もまた悟りへの道なのではないでしょうか。「これまでの自分を捨てなければ前に進めない」という意味においては、どちらも同じことなのですから。
よろしければサポートお願いします! いただいたサポートは奨学金の返済に使わせていただきます!