能登半島地震について思うこと
地震発生後から、職業柄もあって能登のことが気に掛かり、地震や津波のことを調べている。まず最初に、私は地盤や地震動を専門分野として働くエンジニアであり、研究者ではないこと、そして幸いにも大きな地震を被災者として経験したことがないこともことわっておく。
さて、今回の地震、元旦に発生したという悲劇的な地震である。コロナ禍の出口が見え始め、久しぶりに能登に結婚相手や孫を連れて帰省した、なんていう家族も多いことだろう。ほんの1週間前にはクリスマスプレゼントをあげて、前日には年越しそばを食べ、朝には「あけましておめでとう、今年もよろしく。今年の目標は?」などと言い合い、お年玉をあげ、早めに宴会を始めた家庭も少なくないと思う。本当に、残念な思いである。どんな言葉を出してよいかもわからないほど、残念な思いである。
研究者ではないがエンジニアとして、地震学、地震工学の分野に身をおく者として、今回の地震は特に衝撃的な地震でもあった。最大加速度2000galを超える強震動に加えて津波、大規模な火災、土砂崩れ、山道ゆえの交通手段の寸断、真冬ゆえの寒さなど、複雑な要因による多くの犠牲者が出たことに心を痛めている。新型コロナの陽性者も数名出たようで、これから感染拡大も危惧される。
私がこの道に進もうと思ったきっかけは、2011年の東北地方太平洋沖地震だった。地震学の研究室を選び、専門的な知識や考え方を身につけ始めていた時だった(今にして思えば、当時は専門知識と呼べるような大層なものは身についていなかったが)。2万人もの人命が失われ、地震学の専門家は後づけでいろいろな解釈と謝罪をするしかできなかった。
自分が勉強している分野がそのような状況に直面したことを、私は何か運命的に感じていたのだと思う。今思い返せば、青かったのかもしれない。俺にも何かできないか、そういう思いがあったのだ。
そう思うわりには、博士課程まで取りに行くことはしなかった。とったところで、どんな仕事があるだろうか、食っていけるだろうか、研究者になれるだろうか。そういう弱気な思いがあったことは確かだった。だがそれ以上に、地盤調査や建物が設計され建てられる現場で何が起きているのかを知って、その上で、地震による被害を小さくできることを探して生きていきたかったのだ。
あれから、多くの地震があった。2014年には長野県北部で地震があり、2016年には熊本地震、2018年には北海道胆振東部地震が、そして今年、能登半島地震があった。
果たして、私は何かできたのだろうか。地震が起きてから、そう思う日々が続いている。私は就職してから、淡々と業務をこなしてきただけだ。現地への被害調査には何度か行ったことがあるが、支援活動のようなものには関わったことがない。募金はしたことがあっても、被災者の方に直接何かを届けたこともない。
研究者ではなくエンジニアなわけなので、特別何かに貢献できなくとも良い、という考え方もある。何かを予測したり備えたりするのは研究者が新たな研究成果で成すべきことであって、エンジニアは目の前の仕事を淡々と、粛々と、まちがいなくこなしていくだけである。それはそう。だが、この分野に携わるエンジニアたちは、地震の度に歯痒い思いをしているはずだ。私はそう思っている。
我々いちエンジニアにできることは、こうした災害のたびにそれを深く心に刻み、忘れないように日々、その技術を研鑽し、新たな知見を学び、過去の反省を活かしながら、少しでも災害を減らすことに貢献していく、その初心を忘れないことである。
忘れてはならない。自らの解析結果や判断が、そこに居住する人々の運命を決める可能性があるということを意識して、課題に対して真摯に向き合わねばならない。
それを改めて、強く意識していきたいと思う。