♯7「厄年」ってどうすればいいの?
厄年は“役年”!?
●兄・前誠 埼玉県にある上原寺(じょうげんじ)の副住職兄弟ふたりで、お坊さんならではのディープな話題をお届けしていきます。私が兄の仁部前誠(ぜんじょう)です。
○弟・前叶 弟の前叶(ぜんきょう)です。よろしくお願いします。
●前誠 今日は、お寺や各所でお問い合わせの多い、「厄年」についてお伝えします。
○前叶 日本人はこの話、好きかも。
●前誠 まずは厄年の大枠のところから、皆さんに掴んでいただければと。
○前叶 一般的に、年齢によるもの、そして前回ご紹介した「星まわり」による厄年があって。日蓮宗では、この2つを厄年としてよく扱っています。
年齢による厄年は、数え年で見ることを前提としますが、例えば24歳、33歳、42歳、51歳など、10の位と1の位を足して6になる数のときがそうです。
もうひとつは、九星気学などの星まわりをもとに考える厄年で、自分の生年月日から星を算出します。年齢と星まわりの2つの厄年が重なることも当然あります。
●前誠 うん。よく質問をいただくのが、子どもの厄年。「子どもって何もしなくていいのですか?」と聞かれるけれど、皆さんご存じの「七五三」は、実はお祝いではなくて厄年のことで。
○前叶 七五三の年齢、3歳・5歳・7歳を足すと、15になりますよね。子供の場合は年齢がひと桁で、1の位と10の位を足すことができない。なので、15を分解して足すと6ということで、15を3・5・7に分けて子どものうちの厄年をお祓いするというのが、一般的に言う七五三なんです。
●前誠 決して算数の授業ではありません(笑)。我々の宗祖、日蓮聖人もご遺文(いぶん)で「三十三の厄は転じて三十三の幸いとならせ給(たも)ふべし」と言われています。信徒の妻が、女性の大厄といわれる33歳のころ、日蓮聖人のもとへ供養を送り、厄除けを祈願したときの返礼状の一節で、「厄を転じて幸いと為す」という話ですが。こんなお手紙が届いたら心強いなあ。
○前叶 本当だね。「転じて」とあるけど、厄年って「役年」。読んで字のごとく「人の役に立つ年」が本来のあり方で。自分のことを優先しないほうがいいよ、という歳になっている。
起源については諸説ありますが、いずれにしても、年齢や星まわりで区切られているから、いつ厄年がくるかわかりますよね。そのはずなんだけど、厄年になってから急に「自分はどうしたらいいですか」と来られる方が多い(笑)。
厄年は本来、準備をしておかなくてはいけないもの。世間の役に立とうと思っても、事前に準備をしておかないと、自分が厄年で力がないときに人の役に立てないんだよね。
●前誠 「厄」を「役」に転じられない。
○前叶 そういうことになってしまう。
●前誠 厄年には「前厄」「本厄」「後厄」があるけど、それぞれどれくらい気をつければいいんですか? というご質問も多い。
○前叶 私は普段、車とガソリンの話でお伝えしていて。「本厄」は皆さんご存じの通り、厄年の本番で、車で言うと“ガス欠”の状態です。下手するとタイヤがパンクしているかもしれない。当然、その車であちこちに出かけない方がいい。無理に動いてしまうと、車自体が直らなくなってしまう可能性もあります。
後役は本厄の次の年だから、ガソリンがなくて、タイヤがパンクしている状態から年が始まるようなもの。そうすると最低限、ガソリンを入れたり、車をメンテナンスしたりすることから始まる。
そして、世間の人によく勘違いされているのが、「前厄」について。
●前誠 前厄は確かに、難しいと思う。
○前叶 結論からいうと、前厄は本来「厄前」という意味で、まだそこに厄はないんだよね。だから前厄という時期は、厄を役に転じられるようにするための期間と考えるのがいい。来年、ガス欠になる予定で過ごすということです。
現実的なところでは、例えば、来年入院するかもしれないといったことを想定しながら過ごすとか。まだ元気なうちに、本厄や後厄に備えておいてほしいんですよね。
●前誠 本厄になる前の準備期間としてね。
○前叶 そうそう。
厄除けと厄払いの違いとは?
●前誠 厄年に関しては、厄除けと厄払いの違いがよくわからない、という話もあるね。
○前叶 人生を一本道で例えると、こんな風に説明できます。厄がないときは、ただ真ん中をまっすぐ歩いていればいいんだけど、例えば来年が厄年という場合、今年の終わりが近づいてきた頃には、道の真ん中に大きな岩が落ちているのが見えてくる。よく見ると、その岩には「厄」って書いてあったりして(笑)。
●前誠 キン肉マンの額に「肉」って書いてあるみたいにね(笑)。
○前叶 そうそう(笑)。その厄を、年のはじめに道の端へよけるのが、「厄除け」。
ただ、岩をよけても次の年が巡ってくるまで1年間あるので、その間に「これも厄かな?」という小さい”よくないと感じるもの”がやってきてしまう。そしてそれは小さいながら確実に積み重なる。まるで蜘蛛の巣に引っかかったときのように、小さいものなんだけど確実にまとわりついている感じがする。「うわ、いま厄が来たんじゃないかな」と気になってしまう。
●前誠 蜘蛛の巣の喩え、すごくしっくりくる。まとわりついてくるところや、見えそうで見えない感じが。
○前叶 厄除けをして、大きな岩をよけておくことは大事なんだけど、それをしたとしても、小さい厄がくるということは実際にある。小さいものは、いつでも来る。そこで、それを都度都度祓っていくというのが、「厄払い」なんです。
●前誠 細かい「魔」のようなものをね。
○前叶 うん。注意してもらいたいのが、すべてのお寺でそういう分類をしているわけではないということ。年のはじめに行うものを「厄払い」としているお寺もあるし、年中通して「厄除け」か「厄払い」のどちらかに統一しているところもあります。
先の説明は、厄除けと厄払いの違いについて、そういうイメージを持つとわかりやすいという風に捉えてもらえればと思います。
厄年は皆でシェアして乗り越えるという考え方
○前叶 じゃあ厄年は具体的に、どう過ごせばいいのか。わかりやすくいうと、自由に使えるお金が1万円あったとして、いつもはそれを全部自分のために使うところを、自分には5千円、残りの5千円は普段お世話になっている人に手土産を持っていくとか、プレゼントを買うとか。
すべてを自分のために使うことをやめるというのが、厄年の暮らし方として一番の基準になりやすいと思います。
●前誠 そうだね。
○前叶 実は受け取る側の心持ちも大事で。「この人、いま厄年なのか」と受け取っておき、逆に自分が厄のときには受け取ってもらえる、というように。厄年って個人の問題じゃなくて、実は、家族とか世間みんなでシェアしてなんとか乗り越えていこう、という意味合いが強いんだよね。
●前誠 このシェアリングの考え方、すごく好きなんだよね。
○前叶 これって実は日蓮宗の修行僧の考え方と相性がよくて。日蓮宗といえば荒行でもお寺でも「水行」と言ってお水をかぶったりしますけど、水行というのは我々お坊さんが寒い思いをしているとか、ただ自分の罪障(よくないもの)を落としているのではなくて。そこの祈願やご祈祷に来てくださっている方々の厄を、我々がいったん自分の体で受け取って、それを皆さんの代わりに落とすということをしている。
つまり、シェアしているんですね。これを家族とか世間の広いつながりで、皆でなんとか厄年を乗り越えようというのが、お寺的な厄年の考え方かなと。
●前誠 厄年という節目に自分が立ったときに、人とのつながりや、ご縁のありがたさを改めて見つめ直すきっかけとする。そんな向き合い方も、ひとつの方法として提示できるかなと思います。
○前叶 厄年は必ずまわってくるもので、誰しも山あり谷あり。ずっと100点の人生というのはないですよね。厄年はいわば節目で、一つひとつの節々は、その時はつらいかもしれないけれど、後々見たら自分の人生を彩る景色になっている。それが、厄を転じて幸いと為すという、日蓮聖人のお言葉なのかなと思います。
●前誠 明日は明るい日と書きます。皆さまの明日がより良い1日となりますように。
○前叶 合掌。