時>行い、そして時間さえ消えて
今週、いろんなことに気づいた。
そもそも僕は早朝の時間がとても好きだけれど、いくつかの理由でしばらくはそれから遠ざかっているといえるかもしれない。これを書いている今は6:42だが前は4時ぐらいに普通に起きていた。
今、「極北(マーセル・セロー著 村上春樹訳)」を読んでいて、「旅をする木(星野道夫著)」は再読している。2冊を並行して読んでいる。(ちなみに冬の朝はつらいこともあるが、心身がある程度ととのっていれば、きりっと冷えた朝ほど心地よいものはない)
だから、以下に書くようなことを感じとっているのかもしれない。
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多くの人は、何かしよう、何かのために、何をすべきか、何々をしなければならない、と考えるだろうけれど、この視点を少し変えてはどうだろうか(ということに、気づいた)。
僕が挙げるキーワードは4つで、それは、
早朝・朝日・無音(静謐)・自然(無為)
たとえば「早朝」というのは「時間帯」ということであり、「体内時計」という言葉もあるように、これは身体感覚(フィジカル)と密接に結びついている。
「朝日(朝の光)」も、体内時計をリセットするという。セロトニンやメラトニンといったホルモンとも関係するためこれも非常にフィジカル。
そして静謐、自然、無為。
フィジカル、というと「そうだよねージム行って汗かいてねー」など連想するかもしれないが僕がここで言いたいフィジカルとは実に「時間」のことなのだと思う。
つまり今風に図式化(?)してみると
フィジカル > 思考
というよりは、
時 > 行い
という感じかもしれない。
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慌ただしく、そして自分自身を探し続ける人たちへ。
それよりまずは、日の出とともに目覚めてみてはいかがでしょう。
(※夜勤の人などは難しいかもしれませんが…)
さて思いのほか、つらつらと説明をしてしまいましたが、星野道夫さんの「旅をする木」から、大好きな文章をひとつ引用して、この記事を締めようと思います。
ここには「時間さえ消える」といったことが書かれています。