養生は我が心にあり - 養生大意抄08
1.養生の基本は心にあり
【原文】
○養生というときは殊々しく聞ゆれども、左にあらず。惟(ただ)今日立居食男女の上に就て、少く心を用ゆる迄の事にして、事はおこなひ易く益は甚多し。
然(しか)れは我心にありて他にあらず。素問(そもん)と云(いう)古き医書に、心は君主の官といえり。其他の蔵府四支百骸は、臣下にして各(おのおの)其(その)掌(つかさどる)職あり。
假令(たとへば)手よく把(にぎ)り脚よく走(はし)るは、各自其職なれども、心に走らんと思わざれば、走らす。是(これ)臣下君の命令を奉(うけたまわり)て其役々を務(つとむ)るがごとし。
今刃(はもの)を抜はなち地に落てあるをよけぬれば、手足無事なり。よけざれば疵(きづ)つく。よくるとよけざると皆心にありて手脚にあらず。
此故に養生の道如何(いかが)養生の術如何と詳(つまびらか)に尋(たづね)索(もとめ)てよしあしをよく心に辨(わきまえ)別(わかち)務(つとめ)て怠たるべからず。
(多紀元悳『養生大意抄』国立公文書館内閣文庫所蔵)
【意訳】
養生というと大げさに聞こえるけれど、決してそうではない。ただ普段の立ち居、飲食、男女の交わりについて、少々心を働かせるまでのことで、実行しやすく、益は甚だ多いものだ。
そして養生は我が心にある。他にあるものではない。
素問という古い医学書では「心は君主の官」と言っており、その他の蔵府、四肢、百骸は臣下であって、それぞれ職分がある。例えば、手で握り、脚で走ることができるのは、手や脚といった各自の職分であるけれども、心で走ろうと思わなければ走らない。これは臣下が君主の命令を承って、その役目を務めるようなものだ。
もし鞘から抜けたむき出しの刃物が地面に落ちているとしても、それを避けて通れば手足は無事であるし、避けなければ負傷してしまう。避ける避けないの選択は、心によってなされるものであって、手脚ではない。
こういうわけで、養生の道や術を詳しく尋ね求めて、その善し悪しをわきまえ、決して怠ってはならない。
2.ひとこと - 正論は痛い、養生挫折自慢
ここで言わんとしていることは、不摂生の先に病が待っているは明白なのだから、一時の満足に心を奪われず、心を強くもって摂生し、それを回避しましょうということだろう。
こういった正論を言われると、なんだかすごく自分が非難されている気がしてしまう。
正論は痛い。
時々私の鍼灸院にいらっしゃる患者さんと、お互いの養生の挫折自慢で盛り上がることがある。
たとえば私がスポーツジムの入会後2週間で、幽霊会員になった話をすると、なぜか喜んでもらえるし、患者さんの武勇伝を聞くと、私も不謹慎ながらクスッと笑ってしまう。
面白いことに、うるさく運動をしろとか、腹八分目にしなさいと指導するよりも、なぜかこの挫折自慢の後の方が、再び自発的に養生を開始してもらえる。
実際に私も患者さんとの養生挫折談の後に、微妙にやる気がでて、ちょっとだけ生活を正そうと試みたりする。最近はまた筋トレを開始した。
こうやってあまり自分を追い込まずに、サボったりしながら養生するのもきっといいはずだ。長い目でみると、この方が継続もするだろう。とにかく、養生の道は、完全に辞めてしまわなければ、それでいいということです。
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